雨の中のきみ#2

 ある雨の日。やっぱり彼は煙草を吸っている。その横で傘をたたんで構内に入ろうとすると風向きが変わって煙がこちらに吹いてきた。

 「っ、」

煙が目に染みて痛い。思わず目を抑える。

 「ごめん、大丈夫?」

 それが初めて聞いた彼の声だった。彼は大きな体をかがめてわたしの顔を覗き込む。びっくりして後ずさると彼は気まずそうに顔をしかめた。

 「あ、ごめんなさい。大丈夫ですので」

 「こちらこそごめん。驚かせちゃったみたいで」

 なんとなく気まずくてお互い謝罪合戦をしてしまう。ふと、笑い声のようなものが聞こえて頭を上げると、彼が苦笑していた。やっぱりいきなり後ろに引いたのは失礼だったかな。それともやたらと謝るわたしが変だったのだろうか。意図がつかめなくて首をかしげていると彼はもう一度ぷはっと笑って、微笑んだ。

 「目、大丈夫?」

 「はい、大丈夫です。ちょっと染みただけですから」

 「そ、ならよかった。授業行くんじゃないの?」

 「あ、いえ、まだ時間はあるので」

 あるので、なんだというのか。わたしはこれからなにを口走ろうとしているのか。

 「そっか。じゃあごゆっくり」

 そう言って彼は立ち去ってしまった。拍子抜けした。追いかける間もなく、呼び止める間もなく、引き留める余裕さえなかった。残念。でもこれで次に話しかけるネタはできたのだろうか。普通に挨拶から初めてみてもいいのだろうか。先ほどの驚いた彼の顔は祖の身長とは裏腹に子犬みたいで、風に揺れる髪はふわふわで、触れてみたかった。


 まず彼になにを聞きたいか。それはそんなに難しいことじゃない。彼が何故雨の日にしか現れないのかとか、そもそも学生なのかとか、どうしてどの授業にも出ていないのかとか。聞こうと思えば聞きたいことはいくらでも出てくる。でもそれを聞かれた彼がどう思うかを考えると途端に聞きづらい。いきなり見も知らずの女にあれこれ聞かれるのは気分悪いだろうし、わたしだってそんな無神経なことはしたくない。だから最初は軽く挨拶をするだけっていうところから始めてみよう。彼を見かけたらその都度声をかけてみればいい。

 「……それってすごく裕著な話だよなあ」

 仲良くなれるまでにどれほど時間がかかるだろうか。わたしが大学生をやっている間に終わる話なのだろか。それでも話しかけてみなくては仕方ない。最初はただ目につくだけだったけど、それでも気になるようになってしまったからには仕方ない。莉々が言うような色恋沙汰ではないと思うのだけど、それでも前に進めてみたい関係性というのはあるのだ。


 と、思っていたのに天気は晴天が続いた。莉々からは落ち着きがないとからかわれるし、彼には会えないし、碌でもないなと空を見上げる。そりゃ普通にしていれば雨よりは晴天の方がいいのだけど、でも今のわたしに限って言えばそうではない。なんならてるてる坊主を逆さまに吊るしておくことも厭わないくらい雨が降ることを願っている。最初は挨拶から初めて名前を聞いて、さりげなくどこの学科なのかを聞き出そう、なんて会話の順番まで考えて待っているのに。

それに時間がないのだ。わたし大学三年生。季節は晩春。つまり約二年しかない。その二年の間になんとか彼とお近づきになって、せめ連絡先の交換くらいはしておきたいのだ。時間がないのはわたしだけでもない。彼はもしかしたら四年生かもしれない。そうしたらきっと後期にはほとんど大学には来なくなるだろう。いろいろ考えるとやっぱり早いうちに仲良くなっておかなくてはいけないのだ。

彼が誰かと話しているところでも見られればいいなと思う。そうすれば知り合いの知り合いの知り合いの、なんて風につてをたどって彼のことを知ることができるかもしれない。けど彼が誰かと話しているところなんて見たことがない。いつも一人。誰も彼を気に留めることはなく、誰かが彼を気にかけることもない。もし莉々が彼に気づいていなかったら、幽霊なんじゃないかと疑ってしまうレベルだ。それほどまでに彼は誰とも関わっていないようだった。

誰とも関わらないというのはどういう気持ちなのだろうか。わたしは一人暮らしだから家族とのかかわりはない。仕送りはもらっていないので精々半年に一度くらい母親からメールが来るくらい。大学に行けば莉々やゼミの友達なんかがいて、バイト先の引越し屋に行けばバイト仲間がいる。だから完全な一人きりという状態にはなったことがない。いや、彼にだって家族はいるのだろうけどその感覚を想像すると、少し胃が重くなるような気がした。真っ暗で誰もいなくて心細いような泣きたいような、我ながら感情移入しすぎだ。それもかなり失礼な方向に。大学で一人きりだからといって、そのほかの生活までそうであるとは限らないから、そこまで考えては失礼にあたるだろう。彼には彼の家族や友達や仲間がいるのだろう。

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