6.少女二人の子どもっぽいような大人びているような会話
夕食を終えると、やっと部屋で一人になれる。本当は紅葉と二人で使っている部屋なのだが、今紅葉は洗い物や片付けに忙しいので、実質寝る前まで独占できるのである。妹が使わなくなったためもらい受けた古い勉強机の上には、伊吹のラップトップPCと趣味で買い集めたデジタルガジェット、それから、洋書の専門書に論文が山積みになっていた。畳敷きのこの部屋には全く似合わない。
『大丈夫?
ヘッドフォンに突然そんな声が聞こえたので、伊吹は我に返った。ディスプレイの中では米国の友人のエレーナが首を傾げている。イヴというのは伊吹のあだ名である。さっきからSNS上で、彼女とヴィデオチャットをしているところだった。気もなく伊吹は応える。
「ああ、まあ、大丈夫だ、たぶん」
『たぶんって何よ』
「実は今自分が何をしてるのかあまり把握していない」
別に冗談でもなかった。三月末、東京からこちらへ越してきて以来、自分というものがさっぱり見えなくなっている気がしていた。自分が何をしているのか、何をしたいのか、どう生きたいのか。先が見えない。歩むべき道が見えない。周りにだらだらと流されるだけで時間が過ぎている。あれだけやりたかったはずの物理学の勉強すらろくに手に付かず、気づいたらもう七月である。東京か、出来ればアメリカに帰りたかった。日本の田舎は、主体的に生きるのには向いていない。
しかし大して心配している様子でもなく、エレーナは目をキラキラさせて話を続ける。
『それでね、イヴ、クリフのことなんだけどー』
「クリフとは誰だ?」
『だから、あたしの新しいボーイフレンドだって! もうね、毎日がジュージツしてるんだから』
「そうかよかったな」
『意味分かってる? ジュージツしてるの』
エレーナは、ふふん、と言う声が聞こえてきそうなほど得意げな笑みを浮かべている。さぞかし気持ちよくキスしているのだろうな、と伊吹は思った。それから、訝しげに尋ねた。
「……ところでお前、数学はどうしたのだ? 数学オリンピックには出るのだろう?」
『ん?』
「国際数学オリンピック。高校生になったら出るって、
伊吹は半ばあきれ顔で言う。これでもエレーナは、保育所にいた頃から微積分を暗算でこなし、小学二年生の時にはいくつかの方程式に新しい解法を見つけ出した数学の神童として、アメリカでも雑誌の取材をしばしば受けるほど、よく知られていたのだ。伊吹も同じぐらいのことが優に出来るため、ずっと親友として付き合ってきていた。
するとエレーナは、腕組みをして考え込むポーズを取り、こう答えた。
『数学はねー……しばらく、お休みしようかと思ってさー』
「はぁ? 何を言っているのだお前。お前から数学を取ったら何が残る」
『色々残るわよ。夢、希望、将来性、セクシーなスタイル。伊吹も少しは成長した~?』
「う、うるさいな!」
『まあ何でもいいんだけど。あのねイヴ。あたしはある日気づいたの。いつの間にか、あたしが数学を
「……まあ、発想としては分かる」
「でしょう? ただの枠、ただの足枷にしかなっていないのよ。それって単なる不自由だわ。だからあたしは、いったん数学から離れようと思ったの。面白いと思わない?」
そう言って、エレーナはにっこり笑う。頭脳のキレは相変わらず衰えていないようで、一応伊吹は安心した。けれど伊吹としては、あまり頷きたくない結論だった。
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