5.天然系妹はふくれっ面

「お姉ちゃんお帰り~。案外早かったなぁ」

 夕暮れ時になり、自転車を押しながら伊吹が寺に帰ると、庭木に水をやっていた紅葉が元気に手を振っていた。広い境内のあちこちに樹木が植えてあるため、その世話も紅葉の仕事なのである。義理の叔母である梨音りおんも、紅葉の隣で、いつも通りの茶髪にエプロン姿のまま、水まきをしていた。一家十人を支える家事のほとんどは、この二人と、お手伝いの祐理名さんだけで請け負っているのである。


 砂利道をニコニコ顔で近寄ってきた紅葉に、伊吹は尋ねた。

「……紅葉。祖父に寺の由来を聞いたらどれぐらいかかる」

「四時間はいくなぁ」

「そうか……」

 明日は地獄だということが確定した。さらに伊吹は尋ねる。

「明日、祖父が猛烈に忙しいということはないか。死人が二十人出たとか」

「おじいちゃんしばらくヒマやて言うてたよ」


 今日中に殺人事件を起こすとか墓石でドミノ倒しをするとかしない限り、明日の祖父の長時間トークからは逃れられそうにない。伊吹は諦めて、噂の猟奇殺人犯の活躍に期待することにした。そしてとりあえず明日のところは、吉野たちの決めた予定に従うことにする。

 四人で集まった放課後の喫茶『るーじゅ』では、夏一杯のざっくりとしたスケジュールが決まったのだ。明日は、朝イチで賀茂寺に来て住職である三弥和尚の話を聞き、午後からは、鬼に詳しい民俗学者に会いに行く。その後は、一週おきぐらいで集まって研究成果を語り合い、他の鬼にまつわる旧跡を廻っていく。まあ、これぐらいならそれほど負担にならないし、日本の民俗を学ぶという意味でも悪くないだろう。


 そう伝えると、紅葉は両手を合わせて満面の笑顔になった。

「えー! 明日吉野くんや紺ちゃん来るのー?」

「ああ。残念ながら」

「嬉しー! もう四ヶ月ぶりぐらいやーん! みんな変わってないかなー」

「変わってないだろう。お前だって何の変化もないのだから」


 すると紅葉はふくれ面になった。紅葉は吉野たちと中学で同級生だったので、もちろん面識がある。紅葉はその後進学しなかったため、三月まででみんなとはお別れになったのだが、四月になった途端、まるきり同じ顔をした冷たい伊吹が高校へ転入してきたせいで、しばらく学校中が騒然としたものだった。

 テンションの上がった紅葉は、わくわくした表情で話し続ける。

「何用意したらええかなー。おかきとかしかないんやけど」

「疲れ果ててるだろうから甘い物でも出してやってくれ。ああ、あとそれから明日は、夕方から向井坂むかいさかに本を買いに行くから遅くなる。夕飯は要らないから」


 あっさりそう告げた伊吹に、紅葉はえーお姉ちゃんアカンよー、と口を尖らせている。しかし伊吹としては、朝から何時間も祖父の話を聞く上に、夜も顔をつきあわせて食事を摂るなんてまっぴらごめんだった。大家族の中にいると、たまには一人で過ごす時間が欲しくなる。適当に手を振ってごまかしながら、伊吹は自転車を押して、その場から立ち去ろうとした。


 その時、ふと思い出したように紅葉が言った。

「あ、そや……お母さんから電話あったよ」

 その言葉を聞いて伊吹は立ち止まり、それから振り返って、小さく息を吐いた。

「……何て言ってた」

「もうしばらく、お父さんとの話し合い、時間かかるって。来月中には何とかこっちに来れるようにしたいって」

「……そうか」


 母も仕事が忙しく、また引くということを知らない人間であるため、父との離婚の調停は一向に進んでいない様子だった。紅葉はぽつりと呟いた。

「もみじもいっぺん、お父さんと会うてみたいんやけどな……」

「その話はまた今度だ」

 伊吹が早口に応えると、紅葉は大人しく頷いた。

 そして伊吹は、また自転車を押して、裏の物置へと歩いていった。そっとため息を吐く。

 ふと気づくと、先程まですぐそこにいたはずの義叔母の梨音は、庭からいなくなっていた。彼女は叔父、匠雄しようゆうの嫁であり、従姉妹のみわ、ほたるの母親である。この寺に越してきて四ヶ月あまりになるが、伊吹は彼女と会話した記憶が、ほとんどなかった。目を合わせた憶えすらない。たぶん彼女には、嫌われているのだろう、と思っている。


 大家族の中で暮らしていると、色々あるのだ。

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