第一章 隠野の人々

1.天才少女は田舎になじまない

 そして、七月後半。夏休み前の最後の登校日。


 制服のブラウスに着替えた伊吹は、今日も畳敷きの広い居間で、家族と共に朝食を摂っている。長い座卓には紅葉の他にも、祖父、祖母、伯父、義伯母、従姉妹にお手伝いさんと、大勢が着いている。全員いつも通り、黙って口を動かしていた。叔母だけはまだ起きてこない。

 目の前には、湯気の上がる白米に味噌汁、キュウリの漬け物、卵に海苔、アジの開きまでがずらずらと並んでいた。毎朝おおむね同じメニューである。東京にいた頃には、バナナ味のゼリーだけ口に入れて学校に行っていたというのに。おかげで伊吹は、いつも半分以上を残していた。


 口をへの字の形にして伊吹は言う。

祐理名ゆりなさん。私は食べられないと言ったのだが」

「……」

 何度お願いしても、無口なお手伝いの祐理名さんは、一切言うことを聞いてくれない。山のようにご飯を盛る。曾祖母の厳命で、尾津野おづの家の子どもたちには、たらふく食べさせることになっているらしいのだ。

 諦めた伊吹は、ちまちまと朝食を口に運んだ。美味しいけれど、食欲は起きない。


「……伊吹。今日は、何時に帰ってくるんだ」

 伊吹と紅葉の祖父である賀茂寺の住職、三弥さんや和尚が重い口を開いた。今年で七十三になる禿頭の老人だが、僧侶とは思えないほどの頑固さで未だに一家十人を取り仕切っている。毎朝、家族全員の一日の予定を尋ねてくるのである。伊吹はやれやれとうつむきながら答えた。

「分からない。友人と会って話す予定があるのだ」

「分からんとはどういうことだ! みわもほたるも、毎日時刻通り帰ってくるというのに、お前だけはいつまで経っても決まった時間に帰って来ん! どうなっとるんだ!」

「実際にその時にならないと、何時に帰れるかなど分かるわけがないだろう。それに携帯も持っているし、夕食までには必ず戻る。別にいいではないか」

「そういう問題じゃあない! それに、また敬語がなっとらん! 年長者には言葉遣いを気を付けなさい! アメリカ育ちだか何だか知らんが、この寺に来たからには礼儀と作法というものをこのワシがきちんと叩き込んで」

「ごちそうさま」


 祖父の大声を聞き流すと、伊吹はしれっと立ち上がって、部屋の隅の鞄を手に取った。

 今日は高校も最終日なので、集会と成績表渡しだけで実質午前中には終わってしまう。しかしその後、吉野たちとだらだら過ごすことになるだろうし、更にその後は、喫茶店に集まって話したりするかも知れない。だったら何時に帰るかなんて、約束できるわけもない。

「コラ待て伊吹! 待ちなさい」

「このままだと遅刻するのだ……ん?」

 祖父を無視してそのまま登校しようとしたとき、ふと伊吹は、居間のテレビで流れている朝のニュースに目を向けた。緊張した面持ちで、アナウンサーが原稿を読み上げていた。


「……五月から**県こくりの市を中心に発生している連続殺人事件について、県警本部は住民に対し、注意を呼びかけると共に、警察官三百人体制で警戒を行っています。この事件は今年五月十六日、同市の中学二年生の男子生徒が、市内で何者かに首を刃物で切断された状態で発見され、その後六月中に二件、同一犯によると見られる犯行が連続して発生しているもので、県警本部では継続して捜査を行っていますが、まだ犯人の目星は付いていません。これについて県警本部では、警察庁に捜査員の増員を要請し……」


 伊吹は顔を顰める。高校でもずっと話題に上っている事件だった。

 近所の学校に通う中学生が連続して殺され、全国放送で報道されているのである。先月に至っては、十九歳の女性までもが被害に遭っているのだ。週刊誌では「山奥の片田舎で起きた、連続猟奇殺人!」と煽られているし、ワイドショーでも毎日のように大々的に取り上げられているようだった。学校内でも緊急集会が開かれ、夏休み中の外出についても、教師から厳しく指導が繰り返されていた。町中を巡回している警官の姿もよく見かけた。

 すると祖父の隣で、祖母のみどりが、静かに言った。


「爺ちゃんがうるさいのは分かるけども。こういう事件も起きとるんやから、伊吹、気ぃつけて、早よう帰っておいな」

「……分かった」

 伊吹は小さく頷き、居間を足早に出て行った。今日も、朝食は半分以上残してしまった。

「あ、ちょ、ちょと待って! お姉ちゃん、お弁当忘れてる!」

 伊吹が玄関先まで来たところで、エプロン姿の妹が、慌てた声で後を追いかけてくる。紅葉は毎朝、家族全員の分の弁当を作っているのである。


 靴を履いた伊吹はため息を吐くと、振り返った。

「なんだ紅葉。いらないと昨日言っただろう。『るーじゅ』で適当に食べる」

 眼をぱちくりさせる紅葉に向かって、伊吹は口を尖らせてそう言った。『るーじゅ』というのは、市内唯一の喫茶店兼レストランの名前である。

 それを聞くと、紅葉の大きな目がみるみるうるんでいく。伊吹は苦い顔になった。

 震えた声の紅葉は、今にも涙をこぼしそうになりながら言った。


「あ、あの、お姉ちゃん、ゴメンな。もみじちょっと、忘れとって。やったらこれ、いらんよな……これ、あとでもみじが食べ……」

「いい! いいから渡しなさい。食べるから」

 びくびくしながら引っ込んでいこうとする紅葉の手から、伊吹は弁当箱を奪い取る。十六にもなってすぐ泣き出すから困る。しかも、自分と同じ顔なのだから、余計に始末が悪い。

「みわとほたるも、もう出ないと間に合わないだろう。私はいいから、急かしてきなさい」

「ウン分かった。ありがとうな、お姉ちゃん。お姉ちゃんはやっぱり優しいなー」


 にっこり笑った妹の言葉にムッとしてから、伊吹は弁当箱を鞄に突っ込み、乱暴に玄関戸を開けて出て行った。庭に停めてある自転車にまたがり、勢いよくペダルを踏み込む。山にほど近い賀茂寺から海沿いの鍛冶かじ高校までは、十五分ほどかかるのである。

 蒼い草木が生い茂り、すぐそばに澄んだ川が流れる田舎道を、短い髪を風になびかせながら伊吹は走り抜けていった。

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