鬼神来臨~穏やかな田舎の町に鬼は潜む~
彩宮菜夏
序章 とある昔話、そして、今の話
むかしむかし、それはおおきなおにがいました。
おにはよくみえるよっつのめをもち、せんりまできこえるおおきなみみをもち、くちはみみもとまでさけ、あたまには、ふたつのつのをもっていました。けれど、おにはかしこくおとなしかったので、やまでしずかにくらしていました。
あるとき、おにはひとりのむすめにであいました。
むすめはけがをして、しにそうになってたおれていました。しかし、おにはひとではありませんから、かわいそうとはおもいません。ただ、これはなんだろう、なんといういきものなのだろう、とおもいました。そしてためしに、むすめからながれるちを、ぺろりとなめてみました。
するとどうでしょう、おにはたちまちからだがちぢみ、ただのひとになってしまったのです。そしてむすめは、おにのちからをもらって、いきをふきかえしました。おにはなにがおきたかわからず、ちいさなからだで、ただ、ぼんやりとすわりこんでいました。
むすめはそんなおにをつれかえって、たいせつにそだてた、ということです。
*
「なーお姉ちゃん、もうええやん、もみじ帰りたい……」
「何を言うか。お前があんなことを言ったから、連れてきてやったんだぞ」
夜闇の中からは、いつ何が現れてもおかしくなさそうだった。
「鬼などいるはずない。鬼の腕もない。今からそれを見に行くのだ」
「もー怖いー、帰りたいー……スクナ様、助けてください」
舌足らずな紅葉は、涙を浮かべて訴えていた。伊吹はまた眉間に皺を寄せる。自分と同じ十六歳、同じ顔、同じ遺伝子を持っているというのに、この違いは何なのだろう。生育環境の違いがここまで性格に影響を及ぼすとは思いもしなかった。双生児の追跡調査に関する論文を後でチェックしよう、と伊吹は思った。
山に入って一時間ほどが経ったところで、ようやく二人は、目当ての大きな洞穴にまでたどり着いた。目印になる樹や川や窪地、そればかりか洞穴そのものまで、紅葉から聞いた昔話の通りに全て存在していたので、伊吹は驚いていた。洞穴は、見上げんばかりに大きく口を開けている。
暗闇に向かって明かりをつけた。すると、しっとりと濡れ苔むした岩々が見えた。風の反響が、奥からびょうびょうと聞こえる。伊吹は紅葉の手を引いて、躊躇なく中へと入っていった。
やがて光の中に、小さな木造の社が見えた。
黒ずみ古びていて、触れると今にも崩れてしまいそうである。盃や御幣、蝋燭が備えてあるが、どれも薄汚れており、いつのものなのかすら分からない。社には観音開きの扉が付いていて、これも言い伝えの通りだった。二人はその前で、立ち止まった。
扉には朽ちた
伊吹は素っ気なく言った。
「開けるぞ。紅葉、これを持っていなさい」
「ええー……」
がたがた震えている紅葉に無理矢理懐中電灯を持たせると、伊吹は扉の取っ手に手を掛けた。
――大体、非科学的なのだ。
そう伊吹は思う。鬼だか何だか知らないが、お化けの類はつまるところ、人の恐怖心や畏怖心を前近代の論理で解消するための、社会的装置に過ぎない。従って、現代には不要のものなのだ。なのに紅葉は、大まじめに鬼を信じている。
――下らない。
鬼という文化を否定するつもりはない。お話としては面白いし、かつてあったものとしての価値は認めるべきだろう。ただ、所詮過ぎたものは過ぎたものなのだ。近代の光に照らされ失われていったものは、失われていっただけの理由がある。拘泥する意味も、必要もない。現代には現代の論理が存在するのだから。
それなのに。
「お姉ちゃんアカンよ。お社を開けたらまた鬼が出てきて、人がようけ死んでまうよ。ご先祖様と、スクナ様が封印したのに……」
「うるさい! それはただのお話だ。信じてどうする。私は自分の目で観測したものしか信じないし、鬼の話を受け入れるつもりもない……これからお前たちの中で暮らしていくためにも、これは開けないといけないんだ」
伊吹は断言した。
そう。開いていないからややこしいことになるのである。観測するまでは、社の中に鬼の腕がある状態とない状態が同時に重なり合って存在している。ないかも知れないがあるかも知れないから、鬼を畏れる心が生まれる。宗教とは、往々にしてそういうものである。
開けた瞬間に状態は確定し、そこでようやく論理が始まる。そのための科学である。伊吹はそんなことを考えて、少しだけ笑みを浮かべた。嘘でも笑顔を作ると、心に余裕が生まれる。
「開けるぞ」
そう言って、伊吹は力任せに社の扉を開いた。札が軽い音を立てて崩れ、外れる。怯えた紅葉は、ぎゅっと目を瞑ったまま、電灯で中を照らしている。
伊吹は、社の中を覗き込んだ。
そこには――一本の干からびた生き物の腕が転がっていた。
長い時間を経て炭化したのか、真っ黒になっている。指先には、異様に鋭利な爪が付いていた。大きさや形状から、一見して人の腕でないことは分かる。しかし、こんな大きな毛のない腕を持つ動物を、伊吹は聞いたことがなかった。無論、作り物ではない。
伊吹は何も言わず、それをじっと見据えていた。
突然、洞穴を強い風がごうと吹き渡り、伊吹と紅葉は煽られた。
「ふえぇ!?」
驚いた紅葉が懐中電灯を落とす。ガラスの割れる音と共に、辺りが真っ暗になった。
「え、ええ!? お、お姉ちゃん、怖い、どうしよ! なー、お姉ちゃあん!」
「う、うるさい、静かにしなさい!」
焦った伊吹は、ポケットから予備のペンライトを取り出すと、急いでもう一度明かりを点けた。刺すような光が辺りに戻ってくる。
そして彼女は、再び社の中を照らし出した。今自分が見たものを、どうしても確認したかったのだ。さっき自分が見たものは、一体何だったのか。
しかし。
中には、何も入っていなかった。
伊吹はしばらくの間、沈黙した。
「……あ、ほんまや、何にも入ってないな」
少し落ち着いたらしい紅葉は、空っぽの社を恐る恐る覗き込んで、安堵の声を上げた。
「びっくりしたけど……お姉ちゃんの言うとおりやったなー」
「……」
伊吹は何も返せなかった。頭がひどく混乱している。紅葉がそれを見て、首を傾げる。
「お姉ちゃん、どうかしたん?」
「……なんでもない。そうだ、何も入っていないんだ。帰るぞ」
そう言って、伊吹は踵を返した。
慌てた紅葉は、え、お姉ちゃん待って、と言って、足早に去っていく姉の後を追う。二人の後には、扉が開かれたままの社だけが残された。
洞穴を出口へ向けて黙々と歩きながら、伊吹は思った。
――そうだ。
――何も入っていなかったんだ。
これが今から三ヶ月前、四月半ばのことである。
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