第3話
非常口を出て、自転車を引き二人並んで歩く。幸か不幸か、雨は止んでいた。
校門まで、二人黙って歩いた。校門出ると、呪いが解けたように彰一は口火を切った。
「いったいどういうことなんだ? あのおっさんは誰なんだ? どこ行ったんだ? 窓から飛んで消えてしまったのか?」
智香が考え込んでいる。
「ホームレスのひとなのかな。今日は雨だし寒いから、屋根のある場所がほしかったのかな。でも、消えたのはどういうことなんだろう」
彰一には見当がつかなかった。窓の外を見て、ぶら下がったり隠れたり、隣の教室に飛び移るなんてこともできないとわかった。
彰一が先生と窓に近寄ったときに後ろを通って逃げた可能性も考えた。だが後ろには智香がいた。いくら暗くても、智香が気配でわかったはずだった。
考え込んでいる智香に、「わかったか?」と彰一が聞くと、ほっと息を吐いて、
「……ぜんぜん」
と小さく笑った。クラスの誰も解けない問題を解く工藤ですらわからないのに、オレがわかるわけもない。
彰一考えるのをあきらめて、木村先生について自分が何を知っているか、記憶をたどることにした。
木村先生は二年生の担任で、彰一とは関わりが薄く、どういう先生なのかよくわからなかった。印象に残っていることといえば、去年学校の集会で、木村先生が結婚するというので、みんなでお祝いの歌を歌ったことくらいだ。
結婚がおめでたいのも、他人を祝うことにも疑問はない。けれど、よく知らない人の結婚を祝う意味が彰一にはよくわからなかった。だが、小学校高学年になった彰一は世の中そういうことがあると知っていたので、せめてクラスでやればいいのに、と言いたい気持ちをこらえて歌った。
これからもそんな思いをすることがたくさんあるんだろう。彰一は根拠のない予感を抱きながら、青になった歩行者信号を見て、智香の前を、横断歩道へ踏み出した。
「彰一くん、危ないよ!」
はっとして立ち止まる。目と鼻の先を、車がすごい勢いで通り過ぎて行った。
右折を待っていた車が赤信号になってから、交差点に入ってきたのだった。あやうく轢かれるところだった。
「あの車、ライトつけてないから全然見えなかった。あぶねえな」
そう言って振り返ると、智香が呆然とした顔をしていたので彰一は驚いた。
「工藤、どうした?」
「わたし、わかった」
「ほんとうか?」
横断歩道を渡ってから二人並んで、はやる気持ちをおさえて彰一は尋ねる。智香がうなずく。
「あとからいっしょに先生と教室に入りなおしたとき、おじさんは確かに教室にはいなかった。だから、おじさんが出て行ったのは、それより前。わたしたちが入って、おじさんの姿を見たすぐ後に、教室の扉から出て行ったんだよ」
「だけど、そのときオレたちは教室にいたんだぜ? おじさんが教室から出て行こうとしたら、誰か絶対に気づくんじゃ」
「わたしたちには、見えてない一瞬があったんだよ。すぐに先生が廊下から来て、名札を見ようとわたしたちの顔を照らしたとき。まぶしくて、目がくらまなかった?」
そうだ、と彰一は思い出した。
「さっき彰一くんは、ライトがついてなかったから車に気づかなかったけど、わたしたちはライトがついていたから見えていなかったの」
たしかに見えていなかった一瞬はあった。けれど、たくさんの疑問がせきを切ってあふれる。
「だけど、そんな一瞬だぜ?」
「一瞬でも、わたしたちの後ろを抜けて、隣の教室へ飛び込めばいいだけだから」
「おっさんはその一瞬を狙えたのか?」
「別に狙ったんじゃないと思う。ただ逃げるつもりで、隠れて出ようなんて考えてなかった。わたしたちにはもう見つかっちゃってたわけだからね。ただ、偶然が重なったんだよ」
「足音でわかったんじゃないか? あのとき物音は聞こえなかったぞ」
「あの人裸足だったから、そんなに大きな音はしないはず」
次々説明がつけられていく。けれど、いちばん大きい疑問がまだ残っている。
「オレたちは気づかなくても、先生は気づくだろ。すぐ後ろを通られたんだぞ?」
「うん。だから、先生はおじさんがいたことを、あらかじめ知ってたんだよ」
彰一は二の句が継げなかった。
「そうとしか考えられないの。だって先生にはおかしいところがあった。先生はなんで三階に来たのかな?」
言われてみればおかしい。先生は教室に忘れ物したと言っていたけれど、二学年の教室は一階だ。もし三階に用事があったとしてもわざわざ嘘をつく理由がわからない。一階で自分たちを見つけて後をつけていたと考えたとしても、見つけたその場で注意するはずだ。
「他にもあるよ。先生は学校の鍵を持ってた。いくら先生だからって、学校の鍵をもらえるのかな?」
「ってことは、合鍵を作ってた……?」
「そう。事務室から借りたのを、お昼休みの時間にでも持ち出して、作ってもらったんじゃないかな。学校の合鍵を作らなきゃいけない理由。それは、夜に学校に入るためとしか考えられないよね」
「あのおっさんをかくまうためか?」
「たぶんね。先生、レジ袋提げてたじゃない? あれ、おじさんのための食べ物だったんじゃないかな」
「じゃあ、教室の窓が開いていたのはなんでだ?」
「空気を入れ替えるためじゃないかな。たぶんおじさんは、煙草を吸ってたんだと思う。臭いが残るとまずいから、逃げる前にとっさに開けたんだよ」
彰一は、教室に入るときに感じた匂いを思い出した。
「でも、木村先生はそいつがいるのを知ってたんだろ? 先生があとから開ければいい話じゃないのか?」
「そうだね。ということは、おじさんは先生に隠れて吸ってたんだと思う。学校の教室で煙草を吸うのは危険なこと。先生の立場としては、吸われたくなかったと思う。けど、煙草ってなかなかやめられないって言うでしょ? だから隠れて吸ってたんだよ。窓を開けたのは、煙草を吸っていたのを、先生に気づかれないようにするためじゃないかな」
「そういうことか……あ、そうか、すっかり忘れてたけど、ヒトダマの正体って!」
「煙草かライターの火だったんだね」
わかってみればあっけない。彰一は苦笑する。
なじみの駄菓子屋の前を行き過ぎる。コンビニが近くにあるけれど、学校の帰りに道に買い食いするにはちょうどいい値段だからよく行っている。何より小学校帰りのいろんな児童のたまり場になっていて、居心地がよかった。
「しかし、先生とおっさんは、どういう関係だったんだろうな。屋根のあるところなら、他にいくらでもあるだろ。わざわざ教室なんか借りなくても」
「あのおじさんが誰なのかわかれば納得がいくよ。どこかで見たような気がしなかった?」
思いつかない。
「もう少し歩いたら、きっとわかるよ」
智香がいたずらっぽく笑う。自分が気づけないのが悔しい気もするけれど、そんな顔をする智香を見たことがなかったので、まあいいかと彰一は思った。
駄菓子屋を過ぎて、二人が会ったコンビニにさしかかる。
「ほら、あれ」
智香が指さす向こうに、出会ったとき彼女が眺めていたポスターがあった。
彰一は驚きの声をあげる。指名手配者を報じるポスター、そこに写っているのは、まぎれもなく学校にいたおじさんだった。
「夜の学校にかくまうなんて危なすぎるけど、木村先生は結婚してるから、自分の家にはおけないもんね」
木村先生はどうしてそんな人をかくまっているのだろう。
口に出かけたその問いを、彰一は呑み込んだ。工藤は頭がいいから、訊いたら答えてくれるかもしれない。
けれど、知りたくないと思った。少なくとも今は。
*
長く話したので、智香は頭が痺れるような感じがしていた。
コンビニの前、今日二人が出会ったポスターの前に二人立っている。夜の郊外のコンビニは閑散として、駐車場の車もまばらだった。
智香の推論を聞き終わった彰一は、黙って立ちすくんでいた。
二人の間の沈黙は、智香の胸元の携帯電話が破った。お母さんからだった。
「智香、智香っ、いまどこにいるの! 何時だと思ってるの!」
大きな声に驚く。
「今、いつものコンビニに」
「どうしてそんなに時間がかかるの!」
「えっと、ご飯買いに行ったら、友達に会って、いろいろ道草しちゃって……」
「こんなに夜遅くなるまで出歩くなんて、もしものことがあったらどうするの。家に帰ったら智香がいなくてお母さんどんなに心配したか……」
「はい、ごめんなさい……」
「あ、あと夕食は買った?」
「うん。買って、もう食べたよ」
「それならいいわ。とにかく、早く帰ってきなさい。もうこんなことしないでちょうだい。お母さん寿命が縮まるわ」
電話を切る。彰一が、横から興味深そうに見ている。
「怒られちまったか」
「うん」
「気にすんなよ。ついてなかったんだ」
「ありがと。わたし、落ち込んでないよ。今までこんなことなかったから、むしろ、ちょっとうれしいかも」
彰一が、腑に落ちないという顔をする。
彰一にはわからないかもしれないな、と智香は思った。
「……なんか、ごめんな」
彰一が急に神妙な顔をする。
「工藤を危ない目に遭わせちまって。オレが誘ったから、こんなことに」
「そんな、水原くんのせいじゃないよ」
「オレ、今日は間違えすぎたかもしれない」
彰一が、苦い顔で笑う。そんな笑い方はあんまり彼に似合わないと智香は思い、しっかりと目をあわせて口を開いた。
「でも、ちゃんと無事に帰って来れたじゃない。危なかったけど、いいこともたくさんあったよ。水原くんのこといろいろ知った。明るくて、向こう見ずで、ちょっと怖がりで、やさしい人だってこともわかった。だから、わたしにとって今日は、間違ってなんかないよ」
そう言った後、少し恥ずかしくなって、智香は目をそらした。思いを率直に告げるのはあまり慣れていない。
彰一はぽかんとした顔で聞いた後、くすぐったそうに笑った。
「……ありがとな。オレも工藤のこと、知れてよかった。すげえ頭いいんだな」
「そんなこと、ないよ」
「あ、オレ家こっちだけど、工藤は」
わたしはあっち、と指さす。
「それじゃあな」
向かい合って、彰一が言う。お互いもう帰らなければいけない時間だと、智香はわかっていた。けれど足が動かなかった。
今日の出来事がなんだか夢のように思えた。いつも話さないクラスメイトといっしょに夜の学校を探検して、信じられないような出来事に出会った。
明日陽が昇ったら魔法が解けて、ぜんぶなかったことになってしまうような、そんな不安がした。心がきゅっと疼いて、智香は思わず言った。
「ねぇ、明日学校で、ぜったい話しかけて。なんでもいいから。約束して」
彰一は、予想外の必死さに虚を突かれたような顔をした後、得意の屈託ない微笑みを見せた。たしかな目だった。
「大丈夫。ぜったい、話す」
「……ありがとう。じゃあ、また、明日ね」
「ああ、また明日な」
彰一は手を振って、自転車に飛び乗ると、からからと小気味よい音をさせて走り去って行った。
智香はひとり、家路へ歩き出す。帰ったらお母さんにちゃんと謝って、小説の続きを読もうと思った。
少し火照った頬に、夜風が涼しい。
<終>
よるあるく 遠野遠 @Tonoen
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