第2話

 数歩歩いただけで、二組の足音と息遣いが二人を咎めるように響いた。

 彰一が壁の一角を照らすと、大きな絵が浮かび上がった。

 校内の児童の作品で、運動会の短距離走で走る児童たちが描かれている。市の美術展に出された作品だが、年相応の画力のせいで、頭が異様に大きく、両足の長さがまったく違い、目鼻口はひどく歪んでいた。

 彰一は足を止めた。


「水原くん、進まないの?」

「工藤、し、しっかりつかまってろよ」


 振り返って言うと、智香がきょとんとした顔をしている。その顔が思ったより近くにあって、彰一は少しどきっとする。


「え、どうして?」


 急に回らなくなった口で、彰一は言い訳する。


「その、はぐれたりすると、困るだろ」

「そうだね。わかった」


 差し出した手を、智香が握る。智香の体温を感じた。彰一は自分の手が汗ばんでないか心配になった。

 少し、勇気が出た。

 廊下をまた、歩き出す。ヒトダマが見えたのは三階の六年三組だ。まずは階段をめざして、一学年の教室を行き過ぎる。


「なあ工藤、オレの家はさ」


 不気味な静けさを少しでも破ろうと、つとめて明るく話す。


「母さんが塾の先生で、父さんがケイサツなんだけどさ、二人してめちゃくちゃ口うるさいんだよな。それに比べて工藤の家はかっこよくていいよな」

「そっちのほうがいいよ。二人していつも忙しそうだし、疲れてるときはすぐに寝ちゃうし。勉強でわからないところ、教えてもらいたいときあるのに」

「晩飯は、作っていってもらえないのか?」

「作ってもらえるときもある。でも、遅くなるときは今日みたいにコンビニで買うよ」

「それってさ、信じられてるってことだよな」

「どういうこと?」

「お母さんもお父さんも、工藤のことを信じてるから、そういうふうに任せられるんだろ」

「そんなふうに考えたこと、なかったな」


 二学年の教室を過ぎて、階段に辿り着く。二人で階段をのぼる。手をつないでいると上りづらいが、手は離さなかった。


「オレはさ、たぶん、信じられてないんだよな。だからいつもごちゃごちゃ言われるんだ」

「それは大切に思ってるからだよ」

「まあ、そうかも。だけどそれじゃダメなんだよ」


 彰一は束の間恐怖心を忘れ、幼稚園からいっしょの男友達にすら話したことがない気持ちを口に出していた。


「オレはさ、もっと間違えたいんだよな」

「間違えたい?」

「そう。ちゃんとしろ、ちゃんとしろって言われるとさ、間違えなくなるじゃん」

「正しくいられるなら、いいと思うけどな。間違えたほうがいいの?」

「間違わないと、なんていうか、強くなれない気がするんだよ」


 階段を上りきって振り返る。急に大人っぽくなった顔で、智香が言った。


「水原くんって、立派なこと考えてるんだね」


 柄にもないことを語ってしまった自分が急に気恥ずかしくなり、彰一はあわてて話題を変えた。


「そういやさ、工藤は夜に一人で出歩くの、ダメって言われないか? 母さんが言ってたぜ。最近ブッソウな事件が多くて嫌だって。知らない人に声をかけられたら、すぐに逃げなさいって」

「そうだね。先生もそう言ってるし、ほんとはダメかも。でも大丈夫だよ。もしものときのために、ケータイ持ってるから。ほら」

「いいなー。オレいつもケータイ欲しいって言ってんのに、いろいろ危ないからって買ってもらえないんだよ」

「でも、電話とメールしかできないんだよ。見た目もあんまりかわいくないし。何かあったとき連絡するためなんだって」

「ちゃんと心配されてんじゃん」

「そうかもしれないけど、でも、なんだか違うの。そういうのじゃなくて……」


 言い止して、「あ、雨」と智香が呟いた。

 雨が窓を叩く音が聞こえ始めたかと思うと、校舎はたちまちという雨音に包まれた。ますます空気が冷え込んでくる。そういえば今日は雨の予報だったな、と彰一は思い出す。傘を持ってこなかったことに気づく。

 でも、帰りにどこかで一本買って、工藤と二人で差して帰るのもいいな、と彰一は思った。

 階段を抜けて、六年三組の教室へ到着する。深呼吸して教室の入口をくぐる。

 先生も児童も誰もいないはずなのに、六年一組の彰一は、他のクラスに入る居心地の悪さを感じた。

 なんとなく、いつもと違う匂いがした。

 胸の鼓動が高まる。出入り口をくぐったところから、教室の奥をおそるおそる照らす。


 窓際に髭面の男性がいた。薄汚れたダウンコートに、ニット帽をかぶっている。

 男が二人を見て「わっ」と叫ぶ。それを見て彰一も「うわーっ!」と叫び声をあげる。


「えっ、なに、誰っ」


 うろたえる智香の後ろから、また別の声が響きわたった。


「お前ら、何をしてる!」


 声に彰一が振り返り、とっさに廊下へと駆け出す。


「げっ、先生! やっべ、逃げろっ!」


 彰一が廊下に走り出る。


「だめだよ水原くん!」

「うげっ!?」


さらに逃げようとする彰一のフードを、追った智香が掴んで引き留めた。その拍子に彰一の手から懐中電灯が滑り落ち、床にぶつかり転がった。


「いてて……」

「ご、ごめん。でもここで逃げちゃうと、後々面倒なことになるから……」


 彰一はあらためて廊下に目を向け、後から来た声の主を見た。

 身長が高く地味な眼鏡をかけた、三十代後半の男性。二年三組の担任、木村先生だった。スーツの上に黒いコートを着て、片手に白いビニール袋と懐中電灯を提げている。そこまで認識したとき、彰一は教室内でかすかに、窓の開く音を聞いた。


「おい、そこの二人、何やってるんだ。誰だ君たちは」


 懐中電灯が二人の顔に向けられた。視界が白く染まる。彰一はまぶしさに思わず目を細めた。


「名札はつけてないのか。きみたち、ここの学校の児童? 名前とクラスを言いなさい」

「六年二組の工藤智香です……」

「おなじクラスの水原彰一です!」


 すっかりちぢこまっている智香の様子を見て、彰一はあえて威勢の良い声を出す。あんまり小さくなっていると痛くもない腹を探られるかもしれないし、馬鹿を装ったほうがうまく収まることもある。叱られることに慣れている彰一はとっさに判断した。


「どうしてこんな時間に学校にいるんだ。どこから入った?」


 工藤が小さな声で答える。


「えっと、忘れ物を取りに……」

「一階の非常口から入ったんですよ。えーと、開いてたんで……」


 出まかせを言ってから、言いたかったことをぶつける。


「それより先生! 隣の部屋にへんな男がいるんです! 髭もじゃもじゃのおっさん!」


 木村先生が眉を曇らせる。


「馬鹿なことを言うんじゃない。もういいから、早く帰りなさい」

「本当です! 工藤も見ました!」


 彰一の威勢に、智香の好奇心が再燃する。


「あの、わたしも見ました。見間違いじゃありません」

「今もそこにいるから、見てみてください!」


 呆れた調子で先生が言う。


「……わかった。もしそんな人がいたら問題だからな。確認したら、おとなしく帰るんだぞ」

「はい!」


 彰一は廊下に転がった懐中電灯を拾った。灯りが消えている。スイッチを何度も押し直すが点かない。壊れてしまったようだ。

 三人は先生を先頭に、もう一度六年三組の教室へと入った。


「その男はどこにいた?」

「いちばん窓際の列の、ちょうど真ん中あたりの机の上に座ってました」


 記憶を頼りに智香が言う。その場所を、先生が懐中電灯で照らした。

 誰もいない。

 が、照らされた場所の窓が一か所開いて、冷気が忍び込んできていた。

 

「先生、他のところも隈なく照らしてくださいよ! そこらへんに隠れてるかもしれません」


 先生は教室中を照らすが、どこにも不審者の姿は見えない。


「やっぱりどこにもいないじゃないか」

「そんなはずない! そうだ、窓が開いてるってことは!」

「こら、あんまり乗り出すと危ないぞ! やめなさい」


 彰一は開いている窓に駆け寄り、窓から顔を出して周りをうかがう。伝って降りられそうな雨どいもなく、隣の教室の窓が開いている様子もない。駄目元で下を見るが、アスファルトの地面があるだけだ。三階の高さから飛び降りるなんてことはできそうもない。


「水原くん、掃除ロッカーとか、教卓の下とかは?」


 智香に言われて、彰一が調べてまわる。が、どこにもいなかった。教卓の下、配膳台の下も見たが、何もなかった。


「ほら、もういいだろう。いい加減、先生をからかうのはやめなさい」

「そういうつもりじゃないんですよ!」


 彰一は必死で食い下がる。怖れはなかった。ただ、自分の見たものが信じられなくて、確かめてほしい一心だった。


「はいはい、帰った帰った」


 木村先生に促されて、二人はしぶしぶ教室から出た。先生の後について階段を降り、一階廊下を通り、二人の靴のある非常口で立ち止まった。


「じゃあ、忘れ物を持って、気をつけて帰るんだぞ。今後こういうことは絶対にしないように。夜に子供だけで外出するのも危ないのに、学校に入るなんてとんでもないことだ。わかったね」

「はい。ごめんなさい……」


 首を垂れる智香をよそに、彰一は素朴な疑問をぶつけた。


「そういえば、先生はどうして学校にいるんですか?」


 変なこと訊いたら怒られるよ、と智香があわてて目で合図する。だがその予想に反して、先生は平然と答えた。


「ん? 先生も忘れ物をしてしまってね。明日までにどうしても必要な書類を、教室に忘れてしまったんだ。じゃあ、二人とも教員用玄関から出なさい。鍵は先生が閉めておくから」

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