第九の掟
「じゃあ美由、第九の掟は何だと思う?」
今までとちがって、お父さんは急に質問を投げかけてきた。でも、これはかんたん。人の心を見破れ、人の心を決め付けてはならない、自分の心を見破れ、と来たら、次は当然これだ。
「自分の心を、決め付けてはならない!」
「正解! よくできました。では、それは何のためでしょう」
「ええと……、自分で自分にピグマリオン効果を出さないため?」
「大正解! すごいぞ美由」
お父さんが後ろから、両手でくしゃくしゃっと頭をなでてくれた。思わず顔がゆるむ。
「自分で自分にピグマリオン効果をおよぼしてしまうと、『自分はこれでいいんだ!』と思いこんでしまって、『自分はこれでいいのかな?』という
「大変だ」
「大変だ。だからさっきも言ったように、いつも自分の〈気持ち〉を見て回らないといけない。この見回りをさぼっていると、〈こんがらがり〉というものができてしまう」
「こんがらがり?」
「そう。無視された記憶の周りに、同じ感情をよび起こすイメージが寄り集まって、かたまりになったものだよ。例えば美由が、だれかにオバケの話を聞かされたとしよう。そして、本当はすごくこわかったくせに、『こんなのこわくなかった!』ということにして、自分の〈気持ち〉を無視してしまったとする。すると心にひびわれが出来て、その記憶は思い出せなくなり、『こわかった』という本当の記憶の周りに、『夜のトイレ』とか、『かみの長い女の人』とか、その話に出てきたオバケのイメージがからみついて、一つのかたまりになる。これが〈こんがらがり〉だ」
「それができるとどうなるの?」
「〈こんがらがり〉を放っておくと、やがてそこから、
「シャドウ……」
それが「
「それって、どんなやつなの?」
「〈シャドウ〉は足元の〈こんがらがり〉にしばられているので、その場からは動けないが、放っておくとどんどん大きくなって、やがて〈考え〉よりも強い命令を出すようになる。美由が夜中にトイレに行こうとすると『行くな!』とか、かみの長い女の人を見ると『にげろ!』とかね。すると美由は、なぜか夜のトイレがこわくなったり、かみの長い女の人がきらいになったりする。その理由は自分でも分からない。『オバケの話がこわかった』という記憶を無視しているからだ。〈シャドウ〉は〈考え〉からは見えないんだよ。こうして人間は、ときどき自分の〈考え〉にしたがって行動できなくなってしまうんだ」
あたしは再び想像の氷山に登り、南東の〈盲点のエリア〉を見下ろした。さっきまであたしの心を勝手にふみあらしていたボートの人たちはいなくなっていて、そのかわりに、しわくちゃのテントや、くずれた雪だるまや、ワカサギつりの道具なんかにつり糸がからまって、かたまりになったものが転がっている。あれが〈こんがらがり〉だろう。
と、とつぜんその〈こんがらがり〉がバカッとわれて、中から、りんかくのぼやけた、人の形をした黒い影が、ぬうっとすがたを現した! あたしは思わず目をそむけた。それはあまりにも不気味で、どうしても目を向けていることができなかった。あれが〈シャドウ〉にちがいない。あいつは一体どんな命令を出すようになるのだろう。
「やだ、気持ち悪い。自分の中に他人がいるみたい」
「まさしくその通り。〈シャドウ〉は自分の中の『自分にしそこねた自分』、つまり『他人にしてしまった自分』のことだ。人の心の中には、こんなのがうじゃうじゃいるんだよ」
「一ぴきじゃないの?」
「もちろんだ。無視して、ほったらかしといた数だけいる。他人に植えつけられた〈シャドウ〉もいるし、死ぬまで人間を支配し続ける〈スーパー・シャドウ〉というのもいる」
「スーパー・シャドウ?」
「そう。こいつは『社会道徳にしたがえ』と命令してくる〈シャドウ〉だ。サイズも一番大きく、命令の強制力も一番強い。魔法の用語で『エトス』とも呼ばれている。
「人を殺してはいけません、とか?」
「そうだ。それが一番強い命令だね。人を殺してはいけない理由を説明できる大人がいないのは、それが『無視された記憶』から生まれた〈スーパー・シャドウ〉の命令だからだ。無視してるものを説明できるわけがない。美由、ほとんどの人間はね、人を殺さないんじゃなくて、殺せないんだ。自分の〈考え〉ではなく、『人を殺すな』という〈スーパー・シャドウ〉の命令にしたがって生きてるんだよ」
あたしは想像の氷山の上から、もう一度ぐるりと周囲を見わたしてみた。すると、心のひびわれのはるか向こう側、〈未知のエリア〉と〈盲点のエリア〉をへだてる〈理解の地平線〉の上に、神様のような、
「でも、だったら、それでも人を殺しちゃう人がいるのは、どうしてなの?」
「そういう人はきっと、〈スーパー・シャドウ〉の命令にさからえるほど悪い魔力をためこんじゃったか、最初からみんなと同じ〈スーパー・シャドウ〉を育ててもらえなかったんだね」
「悲しいなあ……」
「悲しいね……。でも、これで〈シャドウ〉が悪いものばかりじゃないってことが分かっただろう? 人を幸せにする考えを植え付けてもらった場合には、『がんばれ』とか、『勇気を出せ』とか命令する〈シャドウ〉が生まれてくる。それは、人からもらったプレゼントだ。本当に人間にパワーをあたえてくれる、心強い味方だよ」
「そっか。じゃあ、そういう味方の〈シャドウ〉はたくさんいたほうがいいね」
「ところがそうでもないんだ。いつまでも〈シャドウ〉の力にたよっていると、人間はやがてロボットみたいになってしまう。〈シャドウ〉は決まった命令しか出さないから、どんなときでも『がんばれ!』と言ってくるんだ。そんな命令に毎日したがっていたら、そのうち心がへこたれて、生きていけなくなっちゃうだろうね。それに、良い〈シャドウ〉を放っておくということは、悪い〈シャドウ〉も放っておくということだ。そしたら、悪い命令もずっと受け取り続けることになっちゃうんだぞ」
「えー……。じゃあ、どうすればいいの?」
「〈シャドウ〉と向き合うんだ。心のひびわれが治って、その向こう側へ行けるようになると、ときどき〈シャドウ〉の存在をしらせるサインがとどくようになる。例えば、ある特定の言葉を聞いたときなんかに、
「おおー」
「こうやって、良い〈シャドウ〉も悪い〈シャドウ〉もどんどん〈考え〉の中に取りこんで、〈気持ち〉の上に自分の領土を増やしていくんだ。さっきも言ったように、自分を決め付けている人の〈考え〉は、まるで〈シャドウ〉のように同じ場所から動けない。つまり〈考え〉がものすごくせまいんだ。そうして、自分の〈考え〉ではなく、いろんな〈シャドウ〉の命令で行動している。これじゃあ、自分の人生を生きていることにならないだろう?」
「うん」
「人は、自分を決め付けると、そこから成長できなくなる。うその自分になってしまうんだ。魔法使いは、いつでも本当の自分でいなければならない。本当の自分とは、『変化する自分』のことだ」
「分かった」
「よーし。じゃあ、次はいよいよ最後の掟だ」
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