第五日
砂浜には柏小のみんなが集まっている。リュックをしょって、今日はこれから遠足だ。あたしも黄色いリュックで列にならぶ。宇宙人おばさんがバス会社のはたをふりながら「出発しまーす」と言った。みんなでぞろぞろ海に入って行くと、それに合わせて海の水が四角くへっこみ、海底を歩けるようになった。両側には水のかべがそそり立ち、みんな面白がって手をつっこんだりしている。ざあっと雨がふってきた。みんなレインコートのフードをかぶる。雨つぶは全部魚のたまごで、海に落ちると小さな魚が生まれ、ぐんぐん育って大きくなった。水のかべの中で、マグロや、サンマや、タイや、ヒラメや、リュウグウノツカイや、いろんな魚が泳いでいて、水族館みたいだ。やがて左のかべのおくから、ものすごく大きな影が近づいてきた。真っ白なクジラだ。ぶつかる! と思った瞬間、クジラはすさまじいパワーで体をくねらせ、どおっとジャンプした。見上げると、細長い空を、大きなクジラがジャンボジェットみたいにゆっくり横切っていく。ぱらぱら水がふりそそぎ、みんなきゃあきゃあさわいで受け止めた。クジラはそのまま、ゆうぜんと空を飛び去っていった。すると宇宙人おばさんが、「さあ行きますよー。間に合わないからねー」と言った。歩き出そうと足元を見ると、何かがくねくね動いている。それは無数の魚の赤ちゃんたちだった。海に落ちなかったたまごはかえらないはずなのに、さっきクジラがふらせた水にぬれて、生まれてしまったのだろう。でも、水が足りないから育つことができず、海に入りたがって必死にもがいている。地面にはそんな魚の赤ちゃんたちがびっしりといて、足のふみ場もない。なのに宇宙人おばさんは、「急ぎますよー」と歩き出す。みんなも歩き出す。しかたなくあたしも歩き出す。くつ底を通していやな感覚が伝わってくる。ぷちぷち、ぷちぷち。かわいそう、かわいそう。ぷちぷち、ぷちぷち。ごめんなさい、ごめんなさい。百人の子供が、二百本の足で、魚の赤ちゃんたちをふみつぶしながら歩く。なんでこんなことしなきゃいけないの? 命は大切だって言ったくせに。命は大切だって。言ったじゃん! 言ったよ! 命は大切だって! 命は、大切だって!
目が覚めると、病院のベッドの上だった。うでからチューブがのびて、
「ただのかぜだって。でもすごい熱だから、ひとばん入院だ。春休みでよかったな」
そう言いながら、お父さんはタオルであたしのおでこのあせをふいてくれた。かぜをひくとお父さんがあまやかしてくれるので、小さいころにもどったような気持ちになる。ひとねむりしたからか、おでこは前より冷えてる感じがした。
「いま何時?」
あたしもささやき声で聞いた。というより、おなかに力が入らなくてちゃんと声が出せない。お父さんはうで時計をちらっと見て答えた。
「夜の一時半。他にもねてる人がいるから、静かにね」
もう真夜中だ。お父さんは明日も仕事なのに、こんなところにいていいわけがない。
「お父さん、もういいから、お家帰って、ねて」
「だいじょうぶだよ。大人はひとばんぐらいねなくたって平気なの」
「ばんごはん食べた?」
「美由はお父さんの心配なんかしなくていいから。お前こそ、おなかすいてないか?」
「すいてない……」
「あせかいてないか? パジャマ着がえる?」
「まだいい……」
「そうか」
そう言うと、お父さんはベッドの頭のところに下がっているボタンをおした。すぐに
夜の病室に、時計の音だけがやけに大きくひびいている。あたしはすっかり目がさえてしまった。やがてお父さんが、かけぶとんを直してくれながら言いにくそうに切り出した。
「たんじょう日のレストラン、やめにしようか」
「いやだ!」
あたしは思わずさけび声を上げてしまった。と言っても、自分で思うほど大きな声は出なかったけど。それでも一応、あたしはささやき声にもどして言った。
「いやだ。絶対行く。日曜日までには絶対かぜ治すから」
「そうは言っても、治るかどうかなんて分からないじゃないか」
「それでも治すから。お母さんのお墓参りだって行かなきゃいけないし」
「うーん……」
「おねがい」
たんじょう日の予定は四才のときから一度も中止したことがない。それに、今年のたんじょう日はあたしが魔法使いになる特別な日なのだ。絶対にやりたかった。
「でも、予約を入れっぱなしにしておくってことは、他のお客さんからの予約を断わらせるってことなんだから、それで行けなくなったら、お店に悪いじゃないか」
ああ、そうか……。そう言われると、確かにその通りだ……。でも、でも……。
あたしは何も言えなくなって、なのに、何か言いたい気持ちだけはいっぱいあふれてきて、とうとうなみだがぽろぽろ出てきてしまった。最近いやなことばっかりだ。変な夢ばっかり見るし、宇宙人おばさんには会うし、かぜをひいてしまうし。その上たんじょう日までだいなしになったら、もう目も当てられない。なみだが耳のあなに入って、ゴワッと音を立てた。あたしはかけぶとんを引っぱって顔をかくし、ついでになみだをふいた。
「じゃあこうしよう。予約はキャンセルするけど、ケーキだけは用意しておいてもらう。そうすれば、もしかぜが治らなくても、ケーキだけお持ち帰りにさせてもらって、お家でお祝いできるから。ね? それでいい?」
しかたがない。お店にめいわくはかけられない。あたしはふとんをかぶったまま、「うん」と返事した。お父さんはふとんから出ているあたしの頭をポンポンとなで、「よし。じゃあもうおやすみ」と言った。静かでやさしい声だった。
寝ようと思ったが、まくらがちがうのでなかなかねむれない。あたしは考えごとをしようとして、ふとおかしなことに気がついた。さっきあたしは、「今年のたんじょう日はあたしが魔法使いになる特別な日だ」と考えたのだ。まるで魔法使いになるのが当たり前のことみたいに。まだ心は決まっていないのに、なんでそんなふうに思ったんだろう。ああ、またむねがざわざわしてきた。魔法のことを考えるたびに、こうして心にブレーキがかかる。なんだか自分が二人いるみたいだ。どっちが本当のあたしなんだろう。不思議だな……不思議だな……。
ふと横を見ると、お父さんがそっと病室を出て行くところだった。ああ、お父さんがあたしを置いてどこかへ行っちゃう。急いでベッドを下りて追いかけたが、お父さんが後ろ手に戸を閉めるのにあと一歩で間に合わなかった。閉じたばかりの戸を急いで開けると、お父さんはもう、ろうかのはるか遠くを歩いている。(お父さん!)。なぜか声が出ない。あたしははだしでろうかを走り出す。足がふわふわしてうまく走れない。暗いろうかのつき当たりを非常口のランプがぼんやり照らしている。その下の鉄のドアからお父さんは出て行った。やっとあたしもたどり着き、重いドアをおして外へ出る。風が強い。眼下は夜の町だ。カン、カン、カンと上からお父さんの足音がした。あたしも非常階段を登る。たどり着いた屋上には、夜だというのにたくさんのシーツがほしてあった。バサバサ、バサバサ。シーツが風にはためいている。バサバサ、バサバサ。やがて何十羽ものシーツがいっせいにつばさをたたみ、人間サイズの鳥になった。みんな口々に「
「瀬高美由さん、瀬高美由さん」
何度も何度も名前をよばれ、あたしはようやく目を覚ました。「起きてください、もうすぐ朝ごはんですからね」と、看護婦さんが手早くカーテンを開ける。白いかべに朝日がパアンと当たって、頭にへばりついたねむけの残りかすを焼きつくしてくれた。体温を計ってもらうと、三十七度五分。まだ高いけど、順調に下がっている。体調も回復してきてる感じだ。この分ならたんじょう日までに何とかなるかもしれない。
ふとベッドの上のテーブルを見ると、お父さんからのメモがはってあった。「お仕事に行ってきます。お昼にむかえに来るからね」と書いてある。つまり、午前中いっぱいはこのベッドから動けないわけだ。まあいいや。考え事をするのにちょうどいい。
朝食は、おこわと、けんちんじると、小松菜のおひたしと、ちりめんじゃこ入りの玉子焼き。どれもきらいじゃなかったけれど、玉子焼きの中の小さな魚の赤ちゃんたちを見ると、どうしても昨夜の夢が思い出される。あたしは勇気を出して、えいっと玉子焼きを口に放りこんだ。だって、命をむだにしたら、かわいそうだから。
──そう、命は、大切なのだ。あたしはいつのころからか、生き物の命をものすごく大事にする子供になっていた。
そういえば、昨日はもう一つ夢を見た。命をそまつにした罪で、鳥たちの
おかしい。海の夢であたしがふみつぶしたのは魚の赤ちゃんたちだったのに。これは一体どういうことだ? と、そこまで考えて、あたしはハッとある思い出につきあたった。
そうだ。あれは二年生のときのことだ。遠足の日に雨がふり、みんなでレインコートで歩いたのだ。目的地は学校から歩いて五キロほどの自然公園。そのとちゅうのアスファルトの道を、米つぶみたいに小さなカタツムリの赤ちゃんたちが、ゆっくりゆっくり横断していた。すき間なくびっしりと集まって、飛びこせないくらい何メートルも、道の上をカタツムリの赤ちゃんたちがうめつくしていたのだ。あたしたち子供はみんなとまどった。これじゃあ歩けないと。でも先生は言った。「さあ行きますよー。間に合わないからねー」。だからみんなしかたなく、カタツムリの赤ちゃんたちをぷちぷちふみつぶしながら歩いた。くつ底を通して伝わってきた、あのいやな感覚までありありと思い出せる。あたしはせなかがぞわぞわした。
これだ。これにまちがいない。この思い出が夢になって現れたのだ。分かってしまえばなんとあっけないことか。それにしても、あんなに
こうして一つなぞが解けると、糸をたぐるようにもう一つのなぞも解けた。宇宙人おばさんは、あの二年生のときの
十時半すぎ、看護婦さんによばれて
「今日中に治りますか?」
「うーん、今日中はどうかな。とにかく、お薬を飲んで、ちゃんとねていないと治らないからね」
「早く治る
「お、えらいなあ。注射がこわくないんだね。でも、これくらいなら必要ないよ」
と、お医者さんはにっこり笑ってあたしをほめた。ほめてもらいたかったわけじゃないのに。このお医者さんは、どうやら魔法使いではないらしい。決め付けてはいけないけど。
お昼ごはんを食べていると、お父さんがやって来た。お父さんは真っ先にあたしのおでこに手を当てて、「うん、治ってきた」と安心した声で言った。最後に計った熱は三十七度二分。少しずつしか下がらないのがじれったい。もっと一気に治ってほしい。
お父さんが退院の手続きをすませ、車で家へ向かう。車の中で、あたしはずっとあることを考えていた。どうしてあたしは二年生のときの先生のことがあんなにきらいだったんだろう。その原因になるような出来事がどうしても思い出せない。なぞはまだ残っていた。考えなければいけないことはこんなことではないはずなのに、あたしはなぜか、このなぞを解くことこそが、魔法使いになるかどうかを決める一番の近道のような気がしていた。心のおくの方からそういう思いがやってきて、どうしても消せなかった。運転席のお父さんは何も言わない。あたしの考え事をじゃましないようにしてくれているのだ。これが魔法使いだ。あたしはいつもこうして心を見破ってもらってきた。あたしもこんなふうに、ちゃんとした魔法使いになれるだろうか。魔法使いに、なっていいのだろうか……。
家に帰ると、ベッドに新しいシーツがしいてあった。かわいたパジャマに着がえ、ふとんにもぐりこむ。お父さんが「じゃあ、また仕事に行ってくるから、おとなしくねてるんだよ」と言って出て行った。げんかんのドアが閉まり、お父さんの足音が遠ざかっていく。病院でもらった薬を飲んだせいか、すぐにまぶたが重くなった。──第五日。
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