第六日
あたしが線路を歩いていると、鉄のレールの上に小さなアマガエルがちょこんとすわっていた。「こんなところにいたらあぶないよ」と声をかけると、アマガエルはひょこっと二本足で立ち上がり、あたしを見上げてこう言った。「いぬをさがしてるんだ」。「どんな犬?」。「豆つぶほどの小さないぬ」。「じゃあ、いっしょにさがそう」。アマガエルの後に続いて、レールの上をてくてく歩く。「あ、いた!」。アマガエルが向こう側のレールを指差してさけんだ。見ると、線路のもう一本のレールの上を、何びきものイモムシが列をなし、ゆっくりゆっくり進んでいた。「犬じゃなかったの?」。よく目をこらすと、イモムシの後ろには、アリや、ゾウや、カブトムシや、クマや、トカゲや、ワニや、ヒツジや、ブタや、ウシや、ウマや、他にもいろんな動物たちがぞろぞろついて歩いていた。動物たちの大行列だ。その行列の最後には、豆つぶほどの小さなパグ犬がいた。「本当だ。よかったね」とあたしが言うと、アマガエルは「列車が来るぞ!」とあわてだした。耳をすますと、遠くから、カタン、コトン、という音が近づいてくる。大変だ、動物たちを助けなければ! でも今いるレールは学校の校舎ぐらい高かったし、あっち側のレールまでは何百メートルもある。「にげろー!」。アマガエルの声はとどかない。とうとうアマガエルはぴょーんとレールから飛びおりた。そのいきおいであたしは空中に投げ出され、ぐるぐる回りながら線路の横のしげみに落ちた。おしりをなでなで立ち上がると、遠くに列車のライトが見えてきた。アマガエルはあっち側のレールに向かって一生けん命ピョコピョコ走っている。列車はどんどん近づいてくる。アマガエルはやっと反対側へたどり着き、レールのてっぺんまでよじ登ろうとし始めた。列車はもうすぐそこまで来ている。アマガエルがようやくレールの上にたどり着いた。でも、とても動物たちを全員助けている時間はない。ガラガラガラガラとすさまじい音を立て、ついに列車がとっしんしてきた。「にげて!」とさけぼうとしたが、のどがつまって声が出ない。あたしは後ずさりして線路をはなれた。アマガエルは動かない。ひかれる! あたしはぎゅっと目を閉じた──。
心ぞうのどきどきで目が覚めて、閉じていた目をゆっくり開けた。まどの向こうはうす暗く、朝だか夕方だか分からない。時計の
「美由、なにやってるんだ、ねてなきゃだめじゃないか」
そう言って、お父さんが台所の電気をつける。
「ごめんなさい、起こしちゃった」
「そんなのお父さんがやるから。ほら、まだちょっと熱っぽいじゃないか」
お父さんはあたしのおでこに手を当ててから、
「おなかすいてるか?」
「……うん」
「よし、じゃあちょっと早いけど、朝ごはんにしよう。こたつで待ってなさい」
「うん」
あたしは祭壇のお母さんにおはようを言ってから、こたつにもぐってスイッチを入れた。温まるまで時間がかかるので、ソファに置いてあった毛布を引っ張り、体にまきつける。しばらくすると、お父さんが熱々のしょうが湯を持って来てくれた。
「ほら、これ飲んでな。熱いからね」
「ありがと……」
お父さんは、あたしがかぜを引くと、いつもこれを飲ませてくれる。お母さんに教わったのだそうだ。ふーふーしながらすすっていると、体の真ん中から温かさがじんわりしみこんでくる。今朝は風もなく静かだ。台所から何かをきざむ音が聞こえてくる。あたしはこたつの上の体温計を取り、わきの下にはさんだ。一分ほどでピピッと鳴る。取り出してみると、三十七度ぴったり。体調はずいぶん良くなったのに、まだ完全には治っていなかった。
「出来たよ」
やがて、お父さんが玉子とネギのおじやを持ってきてくれた。
「いただきます」
「いただきます」
病人のためのお食事だけど、お父さんもあたしにつきあって同じものを食べる。
「せきが出るのは治りかけの
これはお父さんのお決まりのセリフだ。次に言うことも分かっている。
「かぜは治りかけが一番あぶないんだぞ。治ったと思って無茶をすると、まだ体が弱っているところへ、また新しくウィルスが入ってきて、ぶり返しちゃうんだから」
分かってたけど、無茶しちゃったのは本当だから、あたしは素直に謝った。
「うん。ごめんなさい」
「ああ、でも、美由はお父さんのためにあらい物してくれたんだよね。ありがとね」
お父さんはいつもやさしい。それなのにあたしは、病気で心配をかけ、
「どうした、美由」
お父さんはあたしの顔をのぞきこむようにしてささやいた。あたしはいつの間にかぽろぽろ泣いていた。われながら泣くほどのこととは思えない。どうしてこんなに悲しいんだろう。
「分かんない……分かんないの……」
「そうか」
お父さんは、なぜか安心したような声で言った。
「自分で自分が分からない、ということが分かったのは、いいことだ」
意味が分からず目を上げると、お父さんは、ほほ笑んでゆっくりまばたきした。
「いっぱい食べて、ねむってしまいなさい。人間の頭は、一度ねむって目覚めると、すっきりするように出来ている。こまったときは、ねむっちゃうのが一番だ」
「うん……」
おじやはちょっとしょっぱかったけど、なぜだかそれがおいしくて、あたしはおかわりした。お父さんは、「お、体がエネルギーを求めているな」と、うれしそうによそってくれた。
薬を飲んで、ベッドにもどる。お父さんの足音が遠ざかるのを聞きながら、あたしは今朝見た夢のことを思い出していた。カエル・イモムシ・鉄のレール……。すると、頭の中でまた一つ、忘れられていた
この出来事も、今の今まですっかり忘れていた。不思議だ。あれほど強い気持ちを味わったのに。あの時、あたしはこう思ったのだ。──あたしは何もしなかった。イモムシたちのために、アマガエルのために、あたしは何もしなかった。それはつまり、男子たちといっしょに殺したのと同じことだ。楽しんで、ケラケラ笑いながら殺したのと同じことだ──。
「その通りです!」と、どこからともなく声がした。見上げると、二年生のときの
パチッ、とスイッチが切りかわるように目が覚めた。カーテンのすき間から明るい光が差しこんでいる。あたしはベッドの上にゆっくり身を起こした。頭は高原の湖のようにすっきりとすみわたっていた。人間の頭は、一度ねむって目覚めると、すっきりするように出来ている。お父さんの言うとおりだった。
一階へおりて口をゆすぎ、こたつに入ってテレビをつける。今日は三月二十八日、土曜日だ。お昼のバラエティ番組では、二人のお笑いタレントが最近はやりのニセアカシアのハチミツをバゲットにつけて食べ、おいしいおいしいと言っている。体温を計ってみると、三十六度五分。かぜはすっかり治ったようだ。でも、特にうれしいとも思わなかった。テレビの中ではいろんな人たちが楽しそうに何かやっていたけれど、何をやっているのか全く頭に入ってこない。あたしはさっきの夢のことを考えた。夢の中で場面がコロコロ変わることはよくある。さっきも、最初は裁判所だったのに、いつの間にか学校の教室になっていた。その理由はもう分かっている。あの夢は、二年生のときのある出来事にそっくりだったのだ。
あれは道徳の時間だった。柏小では毎年必ず「命の授業」というのをやっていた。文字通り、命の大切さをあたしたち子供に分からせるための授業だ。二年生のときの担任の先生が、黒板に大きく「いのち」と書いた。「みなさん、命ってなんでしょう。私たちはふだん、命という言葉を、なにげなく使っていますね。でも、よーく考えてみたことは、あるかなあ。そこで、今日は命について、いっしょに考えていきましょーう」。先生はニコニコしながらそう言うと、黒板に「いのちってどんなもの?」と書き加えた。「それじゃあー、命について、みなさんが知っていること、なーんでもいいので、先生に教えてくださーい」。みんなが口々に答えた。「なくなると死んじゃう」。「一人に一個しかない」。「石とかにはない」。「どんどん新しく生まれる」。先生はそれを一つ一つ黒板に書き出していった。そのころのあたしはまだ引っこみ思案ではなかったので、元気よく発言した。「死ぬと魔法の国に行ける!」。するとみんなが笑った。だれかが「ちがうよ、天国に行くんだよ」と言った。先生は「死んだ後のことは、だれにも分かりません。今は、生きてる間のことだけ、考えましょうね」と言った。あたしはそのとき初めて、お父さんの話はうそだったのかもしれない、と思った。そのあと先生は、教室のテレビでパグ犬が子犬を産む動画を見せた。パグ犬のお母さんはプルプルふるえながら、一生けん命子犬を産んでいた。動画が終わると先生は言った。「犬のお母さん、とーっても苦しそうでしたねー。赤ちゃんを産むというのは、本当ーに大変なことなんです。人間も同じです。みなさんも、みなさんのお母さんが、命がけで産んでくれたおかげで、今、こうして生きているんですよー」。あたしはどきっとした。心がそわそわして落ち着かない気持ちになった。そして、なぜかスカートについた毛玉が気になって、指でむしり始めた。その時、とつぜん先生があたしをよんだ。「それでは、瀬高美由さん、前に出てきてください」。びっくりして目を上げると、先生がニコニコ笑いを顔にはりつけてこっちを見ていた。あたしはおずおずと立ち上がり、黒板の前に出て、みんなの方を向いて立った。先生は、あたしの頭を上から両手でぎゅっと押さえつけるようにして言った。「瀬高さんのお母さんはー、瀬高さんを産んだとき、とーっても大変な思いをして、残念なことに、
教室はしんと静まり返った。あたしはずっとうわばきの先を見つめていた。きっとみんながあたしを見ている。気持ち悪いものを見るような目で。そしてきっとこう思っている。人殺しだ、人殺しだ、こいつは人殺しだ──と。
思い出した。あの時あたしは、生まれて初めて理解したのだ。なぜ自分にはお母さんがいないのか。なぜあたしのたんじょう日はお母さんの命日と同じ日なのか。なぜお父さんは魔法の国なんてうそをついたのか──。ぼんやり何も考えず生きてきた頭に、あの日、かみなりが落ちるように理解がおとずれた。そして同時に、この出来事を忘れた。それ以来あたしは、お母さんの死の理由を、いつ、どうやって理解したのか、思い出せなくなった。まるで生まれつき知ってたみたいに。
そうだ。あの日からあたしは、その事実からにげてきたのだ。お母さんは運悪く死んだのではない。あたしが殺したのだ。もうみとめなくてはいけない。低学年のころから、「魔法」という言葉を聞くたびにむねがざわざわしていたのは、卒園アルバムに書かれた夢がはずかしかったからなんかじゃない。その事実をかくすためにお父さんが使った言葉が、「魔法」だったからだ。だからあたしは「魔法」と聞くたびに、それを思い知らされるような気がして、こわかったのだ。あの日を境にあたしが別人のように引っこみ思案になったのも、心のどこかでこう思っていたからだろう。──あたしは他の子たちみたいに、笑ったり、はしゃいだりしてはいけない。あたしにそんな資格はない。だってあたしは、本当は生まれてきちゃいけなかった人間なのだから──。
「正解です!」
テレビはクイズコーナーになっていた。お笑いタレントの二人が司会をしていて、グラビアアイドルの人が何か答えを当てたらしい。そのとき急に、お腹がぐうーっと鳴った。テレビを消して、台所でうどんをゆでる。玉子を落として、きざみのりとあげ玉を乗っけて、お腹いっぱい食べたら、なんだか久しぶりに
二階へもどろうとして、ふと祭壇に目をやると、花びんの水がへっていた。水をかえ、祭壇にそなえ直す。そうして何気なく鏡の中の自分を見た時、あたしは不思議な感覚にとらわれた。そこにうつっている自分が、まるで見知らぬ他人のように思えたのだ。確かに自分の顔なのに、どうしても自分のような気がしない。これは一体だれだろう。どうしてここにいるのだろう。なんのためにいるのだろう。この世界には何十億人もの人間がいるのに、どうしてあたしは他のだれかじゃなくて、この人なのだろう。生まれるか、生まれないか、どっちの可能性もあったのに、どうして「生まれる」のほうが選ばれたんだろう。
あたしはなんとなく、最初の夢であたしの写真が言った言葉を口に出してみた。
「あんたなんか、魔法使いにはなれないよ」
ああそうか、あれは、魔法使いに「なってはいけない」という意味だったのだ。お父さんは言った。魔法使いになるのは、幸せになるためだと。でも、あたしには幸せになる資格はない。だから、魔法使いになる資格もないのだ。これで全てのなぞは解けた。魔法の掟を教わった夜から、ずっと続いてきた不思議な夢の意味や、むねのざわざわの理由も、全部わかった。もう考える必要はない。あたしは、お母さんの祭壇の前で、心を決めた。
──魔法使いには、ならない。
そう決めてしまうと、心が晴れ晴れとして、むねがすーっとした。
土曜日はお父さんがちょっとだけ早く帰ってくる。あたしの熱がすっかり下がっているのを確かめて、お父さんはとても喜んだ。それからいっしょにコロッケを作り、ばんごはんを食べ、三日ぶりのおふろに入っているときのことだった。あたしのかみをシャンプーしながら、お父さんが静かに切り出した。
「美由、こうしていっしょにおふろに入るのは、今日で最後にしよう」
「えっ……」
ひょっとして魔法使いになるから? でも、ならないって決めたのに……。あたしが
「もう十才だからね」
「ああ……」
今、心を見破られただろうか。まだ、どんな言葉で返事するか決めてない。あたしはできるだけ落ち着いたふりをして答えた。
「うん。わかった……」
「ちょっとさびしいけどな」
自分から言い出したくせに、お父さんは本当にさびしそうにそうつぶやいた。あたしも残念だった。おふろの時間は、お父さんとゆっくりお話をする大切な時間だったのだ。でも、あたしの体はこれからもどんどん大きくなるし、これはしかたがない。なにしろ学校の友達はみんな、もう親とおふろに入ったりなんかしていない。クラスの女子でその話題になったとき、あたしははずかしくてうそをついた。「あたしだって一人でおふろ入ってるよ」と。そのうそが、明日からは本当になる。あたしはお父さんのせなかをごしごしあらいながら言った。
「十年間ありがとね」
「どういたしまして」
改まってそう言い合うと、なんだかおかしくて、二人でくすくす笑った。
「十年か……。よくここまで育ったなあ。最初はこんなに小さかったんだぞ」
そういってお父さんは、赤ちゃんのころのあたしを両手に乗せている仕草をした。その仕草はもう何度も見せられてきたけど、自分がそんなに小さかったなんて、いまだに信じられない。頭のサイズなんか野球ボールくらいだ。それでも、お母さんを殺すのには十分な大きさだったのだろう。あたしはふいに、今言ってしまおうかと思った。
「お父さん……あのね……」
「うん?」
ところが、いざ言おうとすると、言葉が出てこない。まるでセリフを忘れた役者みたいに。
「なんでもない……」
「そうか」
お父さんはそれ以上しつこく聞いてこなかった。それから二人で湯船につかり、いっしょに百まで数えた。お父さんとの最後のおふろは、あったかくて、ゆったりした時間が流れていて、とっても気持ちよかった。
おふろから出てパジャマに着がえ、その夜は早めにベッドに入った。今日であたしの九才が終わる。明日はあたしのたんじょう日で、お母さんの命日だ。目をつむると、まるで体がふとんにしずんでいくように、すうーっとねむりに引きこまれていった。──第六日。
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