第二日
あたしは体をぎゅっと丸めて、逆さまにうかんでいる。水中なのに苦しくないのは、あたしが世界中の空気をすいこんでいるからだ。そのせいで今、
あたしはふとんの中で体をぎゅっと丸めていた。また変な夢だ。いつのまにか止めていた息をそろそろとはき出す。外はまだうす暗い。もう一ねむりしてもいい時間だったけど、もうねむくないし、朝ごはんの支度でもしよう。インスタントみそしる用のお湯をわかし、玉子焼きを作る。ソーセージをいためていると、お父さんが起きてきた。「おはよう。うまそうだな」などと言うだけで変わった様子はない。「野菜が足りないな」などと言って手早くレタスをきざんだりしている。朝食をすませ、お父さんを送り出すともうすることがない。テレビはつまらないし、お散歩にでも行こう。ジーンズとセーターに着がえ、ジャンパーをはおる。あたしはおしゃれにあんまり興味がない。だいたいいつもこんなかっこうだ。
外はまだ少し寒いけれど、日に日に春のにおいが増している。どこかでメジロが鳴いていた。三角形の庭(というより放ったらかしの原っぱ)を横切り、家の門を出る。
あたしの家は、広い平地にぽつんと取り残された小山のふもとに建っているのだ。山というほど大きくはないけれど、ちゃんと喜門山という名前までついている。昔は周りに竹やぶや雑木林の山々があって遠くからは見えなかったそうだが、バブルの時代、
再び歩き出すと、足は自然と柏小へと向かった。バス通りに出て、白線で仕切られただけのせまい歩道をたどる。通い慣れた朝の通学路をランドセルもせおわず一人で歩くのは、なんだか悪いことでもしているみたいで、体がもぞもぞして、ちょっと楽しかった。
「おはようございます」
「やあ、おはよう。君も遊びに来たのかい?」
「はい」
校務のおじさんは、おじさんと言うよりはおじいさんで、本当は
「入っていいよ。じっちゃんがいる間だけ、特別だぞ」
と言って、ヒコじいはロープをちょこっと持ち上げてくれた。あたしはロープをくぐって校門の中へ入った。
「ありがとうございます。今日もお仕事なんですか?」
「うん。最後に校舎の外もきれいにしてやろうと思ってね」
お別れ会の後、あたしたちはみんなで学校中をぴかぴかにそうじした。取りこわしが決まった校舎に、最後のお礼をしたのだ。でも、そう言えば、外はやってなかったっけ。
「じゃあ、あたしも手伝います」
「いや、もうあらかた終わったよ。あとは業者のトラックが来たら、ゴミを積みこむだけ」
そう言ってヒコじいは、先生たち用の
「昔のことばっかり考えるのは、年寄りだけでいいんだよ。四月になったら楽しいぞー、新しい友達がたーっくさん出来てー」
──あっ、見破られた!
あたしはとつぜん、目の前がぱあっと明るくなったように感じた。あたしは何もしゃべっていない。それなのにヒコじいは、あたしが昔のことを考えてるって気がついたのだ。まちがいない、今あたしは、魔法で心を見破られたのだ! ということは、ヒコじいは魔法使いだったのだ! 世の中の大人がほとんど魔法使いだというのは、本当のことだったのだ!
急に魔法のことを思い出したせいで、頭がくらくらする。こんな大事なことなのに、なんで今まで
「なんで分かったんですか?」
あたしは思わず口走ってしまった。するとヒコじいは目を丸くしてあたしの顔をのぞきこみ、体をのけぞらせて「かっかっかっか」と笑った。答えてはくれない。掟だからだ。──魔法のことは、
と、ちょうどそこへ、ゴミ業者のトラックがやってきた。
「あぶないからはなれておいで。校庭のほうに行ってごらん。お友達が来ているよ」
ヒコじいがそう言うので、あたしは「はい」と返事して、素直に校庭へ行ってみることにした。魔法の秘密は、魔法使いになれば分かることだ。魔法使いに……なればの話だが。
校庭では同学年の男子たちが遊んでいた。
「よう、瀬高じゃん。何しに来たんだよ」
「別に」
桐畑くんが声をかけてきたけど、あたしはぶっきらぼうに返して、校庭のすみに立つモチノキの下に向かった。これは学校で一番古い木で、かたわらには「昭和
この木は、下の方の太い枝がとちゅうで何本も切られていて、そういう枝には葉っぱもないので、木登りにちょうどいい。あたしはジャンプして一番低い枝にぶらさがった。そこから体をゆらして次の枝に手をかけ、最初の枝に足をかけて体を持ち上げる。そうすると三番目の枝に手がとどくので、手を持ちかえてぐいっと体を起こす。これがこの木に登るときの正しい手順だった。そこからは、いろんな枝へ自由に移動できる。モチノキは
「よーく目に焼き付けておきな。そこからのながめは、もう最後だからね」
と、とつぜん下からヒコじいの声がした。ゴミ出しがすんだので、あたしたちの様子を見に来てくれたのだろう。
「またいつでも遊びに来ます。すぐ歩いて来れるし」
あたしが何気なくそう答えると、ヒコじいは悲しそうに首をふってこう言った。
「いやあ、この木なあ、切られることになっちゃったんだよ」
「えっ!」
あたしはびっくりして思わず声を上げた。理解できなかった。学校がなくなるのは少子化だからしかたがない。でも、だからって木まで切る必要はないと思う。木は何も悪くないのに。するとヒコじいは、そんなあたしの考えをまっすぐ見破って答えてくれた。
「しょうがねえんだと。木を管理するにも、税金がかかるからだって」
税金! そんな人間の勝手な都合で、生き物の命が左右されてしまうなんて!
「木なんて自然のものなんだから、放っといてあげればいいのに……」
「うん。本当だな。でも、こいつは人間が植えたもんだからね。そうもいかねえんだろうな」
あたしは大きくため息をついた。再び目を上げてみると、景色はさっきまでと全くちがって見えた。この木がなくなったら、今あたしがいるこの枝の上はただの空中になってしまう。そうしたら、これとぴったり同じ景色は本当に二度と見られなくなるのだ。
「おい瀬高、おりろ」
「お前ばっかりずるいぞ」
あたしが景色との別れをおしんでいると、それをじゃまするように郡くんと桐畑くんが声をかけてきた。宗像くんもいる。ヒコじいのすがたが見えたので、サッカーをやめてこっちに来たのだろう。
「なんでよ。あっちでサッカーやってれば?」
「うるせえ、ハーフタイムなんだよ」
そう言って郡くんはどんどん木に登ってくる。桐畑くんと宗像くんも後に続く。宗像くんは太っていて体が重そうなのに、そんなことは物ともしない様子だ。三人ともあっという間にあたしより高い枝に登り、そろってこっちを見下ろしてきた。
「早くどけよ」
「あんたたちはそこにいればいいでしょ」
「お前んとこが一番景色がいいんだよ。順番、順番」
と、宗像くんが笑顔で言う。気に食わないけど、ここからの景色が一番なのは確かにその通りだった。枝が太いから先のほうまで行けて、他の枝にじゃまされずに景色を見ることができるのだ。まあしかたがない。順番だ。あたしは素直に木をおりることにした。
「なんだ、ずいぶんかんたんにこうさんしたな」
地面に着くとヒコじいが笑って言った。あたしは手をはたきながら、あいまいに笑い返した。別にこうさんしたわけじゃない。ただなんとなくゆずってやってもいいかな、という気になっただけだ。理由はない。
「いつ切られちゃうんですか? この木」
あたしは答える代わりにそうきいた。
「うん……、校舎の取りこわしといっしょだから、だいたい梅雨明けごろかな」
じゃあ、最後に花だけはさかせることができるんだ……。あたしはせつなさをおし殺し、モチノキの幹をなでて別れを告げた。男子たちはみなだまって木の上から遠くを見ている。あたしはヒコじいにお礼を言って学校を後にし、日の高いうちに家へもどった。夕方になり、夜になった。──第二日。
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