第二日

 あたしは体をぎゅっと丸めて、逆さまにうかんでいる。水中なのに苦しくないのは、あたしが世界中の空気をすいこんでいるからだ。そのせいで今、宇宙うちゅうには水しかない。この空気をはき出してはだめなんだけど、もうむねがパンクしそうだ。ああ、もう限界! あたしはアーッとさけびながら息をはき出した。口から出た空気はぶよぶよしたかたまりになり、あたしをつつみこんでどんどんふくらんでいく。部屋くらいに、体育館くらいに、ドーム球場くらいに、町がすっぽり入るくらいに……。空気のかたまりは平べったく広がってるみたいで、上と下には水面が見えるけど、横の水面はもう遠すぎて見えない。周囲はすっかり青空だ。顔に風を感じる。上空から見る水面には白波が立ち、もう海のようだ。あちこちに白い雲が出来始めた。雲はまるでガラス板に乗っているみたいに、海面から一定の高さを保ってびっしりとうかんでいる。風がどんどん強くなり、耳元でゴウゴウと音を立てる。あたしはどうやら下の海面に向かって落下しているようだ。いつから上下が出来たのだろう。下を見ると、遠くから白くて四角い物体が近づいてくるのが見えた。どうやら上の海面に向かって落下しているらしい。重力が反対に働いているのだ。物体はどんどん接近してくる。ああ、あれはお母さんの祭壇だ。祭壇は回転しながらときどき鏡をキラッとかがやかせた。このコースならぶつかる心配はないが、つかまえることもできそうにない。あたしと祭壇は空中で風を切りながらものすごいスピードですれちがった。お母さんの写真がちらっと見えた。祭壇はあっという間に遠ざかっていく。あたしは思わず「お母さん!」とさけんだが、その声は風にかき消された。下の海は命の世界、上の海は死の世界だ。ああ、そうか。死んだ人間が空の上にいるというのは、こういう意味だったのか──。


 あたしはふとんの中で体をぎゅっと丸めていた。また変な夢だ。いつのまにか止めていた息をそろそろとはき出す。外はまだうす暗い。もう一ねむりしてもいい時間だったけど、もうねむくないし、朝ごはんの支度でもしよう。インスタントみそしる用のお湯をわかし、玉子焼きを作る。ソーセージをいためていると、お父さんが起きてきた。「おはよう。うまそうだな」などと言うだけで変わった様子はない。「野菜が足りないな」などと言って手早くレタスをきざんだりしている。朝食をすませ、お父さんを送り出すともうすることがない。テレビはつまらないし、お散歩にでも行こう。ジーンズとセーターに着がえ、ジャンパーをはおる。あたしはおしゃれにあんまり興味がない。だいたいいつもこんなかっこうだ。


 外はまだ少し寒いけれど、日に日に春のにおいが増している。どこかでメジロが鳴いていた。三角形の庭(というより放ったらかしの原っぱ)を横切り、家の門を出る。段々だんだんになった岩をおりると、足首ぐらいまでの浅い小川が流れている。丸木橋をわたり、小川にそってヒマラヤすぎ並木道なみきみちを歩いていくと、やがてアスファルトの農道と合流する。小川が流れこむ農業用水路ぞいに、さらに十五分ぐらい歩けば十字路だ。右ヘ折れてコンクリートの短い橋をわたると山のとうげ道へ、左へ折れると住宅街じゅうたくがいへ、まっすぐ進むとバス通りへ出る。ここからふり返ると、田んぼの向こうに、あたしの家が建つ小山を一望することができる。

 あたしの家は、広い平地にぽつんと取り残された小山のふもとに建っているのだ。山というほど大きくはないけれど、ちゃんと喜門山という名前までついている。昔は周りに竹やぶや雑木林の山々があって遠くからは見えなかったそうだが、バブルの時代、宅地造成たくちぞうせいのために周囲の山が切りくずされたとき、なぜかこの小山だけが取り残されたのだという。そのあとバブルがはじけて住宅建設じゅうたくけんせつの計画が中止になり、空き地が放置されたおかげで、こんな景色になったのだそうだ。あたしはここからの景色が大好きだ。田んぼに水が張られる季節には、小山はまるで湖にうかぶ島のように見えてとても美しい。今はちょうど小山の南側に立つ椿つばきが開花の時期で、あざやかな赤い色がはっきり見える。

 再び歩き出すと、足は自然と柏小へと向かった。バス通りに出て、白線で仕切られただけのせまい歩道をたどる。通い慣れた朝の通学路をランドセルもせおわず一人で歩くのは、なんだか悪いことでもしているみたいで、体がもぞもぞして、ちょっと楽しかった。


 廃校はいこうになった柏小は静まり返っていた。まるで知らない場所みたいだ。校門の前にはロープが張られていて、「関係者以外立入禁止」と書かれた札が下がっている。あたしはまだ関係者かな。それとも、もうちがうのかな……。そんなふうになやんでいると、ちょうど校務のおじさんが竹ぼうきを持って通りがかった。

「おはようございます」

「やあ、おはよう。君も遊びに来たのかい?」

「はい」

 校務のおじさんは、おじさんと言うよりはおじいさんで、本当は持田もちださんというのだが、みんなからは「ヒコじい」とよばれている。理由は分からない。いつもにこにこしていて、顔の下半分が真っ白なひげにおおわれていて、サンタさんみたいだ。子供が悪いことをしたときはこわいけど、ヒコじいのことをきらいな子は一人もいない。終業式の前の日、みんなで校舎とのお別れ会をしたときも、いっしょに歌を歌って、泣いてくれた。

「入っていいよ。じっちゃんがいる間だけ、特別だぞ」

 と言って、ヒコじいはロープをちょこっと持ち上げてくれた。あたしはロープをくぐって校門の中へ入った。

「ありがとうございます。今日もお仕事なんですか?」

「うん。最後に校舎の外もきれいにしてやろうと思ってね」

 お別れ会の後、あたしたちはみんなで学校中をぴかぴかにそうじした。取りこわしが決まった校舎に、最後のお礼をしたのだ。でも、そう言えば、外はやってなかったっけ。

「じゃあ、あたしも手伝います」

「いや、もうあらかた終わったよ。あとは業者のトラックが来たら、ゴミを積みこむだけ」

 そう言ってヒコじいは、先生たち用の駐車場ちゅうしゃじょうのかたすみを指さした。そこには、木の枝の束や、雑草のつまった大きなビニールぶくろや、体育倉庫の中に何年もねむっていたらしい古いネットや、破れたボールや、運動会でチームのプラカードに使ったベニヤ板の切れっぱしなんかがまとめて置いてあった。ああ、あれには見覚えがある。ベニヤ板にみんなで絵をかいたっけ。いろんな思い出とお別れをすませたつもりだったのに、なんだかまたせつない気持ちがぶり返してきてしまった。すると、ヒコじいがふいに声をかけてきた。

「昔のことばっかり考えるのは、年寄りだけでいいんだよ。四月になったら楽しいぞー、新しい友達がたーっくさん出来てー」

 ──あっ、見破られた!

 あたしはとつぜん、目の前がぱあっと明るくなったように感じた。あたしは何もしゃべっていない。それなのにヒコじいは、あたしが昔のことを考えてるって気がついたのだ。まちがいない、今あたしは、魔法で心を見破られたのだ! ということは、ヒコじいは魔法使いだったのだ! 世の中の大人がほとんど魔法使いだというのは、本当のことだったのだ!

 急に魔法のことを思い出したせいで、頭がくらくらする。こんな大事なことなのに、なんで今までわすれていたんだろう。あたしはぼうぜんとヒコじいを見上げた。真っ白いひげを生やし、深いしわがきざまれたその顔は、本当に何百年も生きている魔法使いに見えた。手に持ったほうきまで、魔法のつえに見えてくる。それにしても不思議だ。魔法使いは一体どうやって人の心を読んでいるのか。今まで当たり前のことだと思っていたけれど、改めて考えてみると不思議でしょうがない。人間の頭はコードでつながっているわけでもないのに……。

「なんで分かったんですか?」

 あたしは思わず口走ってしまった。するとヒコじいは目を丸くしてあたしの顔をのぞきこみ、体をのけぞらせて「かっかっかっか」と笑った。答えてはくれない。掟だからだ。──魔法のことは、秘密ひみつにしなければならない──。

 と、ちょうどそこへ、ゴミ業者のトラックがやってきた。

「あぶないからはなれておいで。校庭のほうに行ってごらん。お友達が来ているよ」

 ヒコじいがそう言うので、あたしは「はい」と返事して、素直に校庭へ行ってみることにした。魔法の秘密は、魔法使いになれば分かることだ。魔法使いに……なればの話だが。


 校庭では同学年の男子たちが遊んでいた。宗像むなかたくんと、桐畑きりはたくんと、こおりくんだ。あたしは正直「なんだこいつらか」と思った。三人とも幼稚園のころから知っているが、あんまり好きな子たちではない。三人はへんてこなサッカーをやっていた。一人がセンタリング、一人がシュート、一人がキーパーで、ゴールが決まらなかったらローテーションだ。

「よう、瀬高じゃん。何しに来たんだよ」

「別に」

 桐畑くんが声をかけてきたけど、あたしはぶっきらぼうに返して、校庭のすみに立つモチノキの下に向かった。これは学校で一番古い木で、かたわらには「昭和じゅう年度卒業記念植樹しょくじゅ」と書かれたくいが立っている。春には小さな薄黄色の花が、冬には真っ赤なたまご型の実がいっぱいついて、とてもきれいだ。

 この木は、下の方の太い枝がとちゅうで何本も切られていて、そういう枝には葉っぱもないので、木登りにちょうどいい。あたしはジャンプして一番低い枝にぶらさがった。そこから体をゆらして次の枝に手をかけ、最初の枝に足をかけて体を持ち上げる。そうすると三番目の枝に手がとどくので、手を持ちかえてぐいっと体を起こす。これがこの木に登るときの正しい手順だった。そこからは、いろんな枝へ自由に移動できる。モチノキは木肌きはだがすべすべしているけど、気を付けていれば落ちる心配はない。あたしは一番お気に入りの大きな枝にまたがって遠くの景色をながめた。校庭の南に広がる田んぼは黒々と耕され、その向こうには川が光っている。あの川をこえた先に、四月からあたしたちが通う桜谷小がある。ここから見るとすぐに飛んでいけそうだけど、実際には一キロ以上もはなれているそうだ。さらに遠くへ目を移すと、青くかすむ山々が折り重なるように空を支えていた。まだ少し冷たい春の風をほほに感じながら、あたしはその景色に見入った。

「よーく目に焼き付けておきな。そこからのながめは、もう最後だからね」

 と、とつぜん下からヒコじいの声がした。ゴミ出しがすんだので、あたしたちの様子を見に来てくれたのだろう。

「またいつでも遊びに来ます。すぐ歩いて来れるし」

 あたしが何気なくそう答えると、ヒコじいは悲しそうに首をふってこう言った。

「いやあ、この木なあ、切られることになっちゃったんだよ」

「えっ!」

 あたしはびっくりして思わず声を上げた。理解できなかった。学校がなくなるのは少子化だからしかたがない。でも、だからって木まで切る必要はないと思う。木は何も悪くないのに。するとヒコじいは、そんなあたしの考えをまっすぐ見破って答えてくれた。

「しょうがねえんだと。木を管理するにも、税金がかかるからだって」

 税金! そんな人間の勝手な都合で、生き物の命が左右されてしまうなんて!

「木なんて自然のものなんだから、放っといてあげればいいのに……」

「うん。本当だな。でも、こいつは人間が植えたもんだからね。そうもいかねえんだろうな」

 あたしは大きくため息をついた。再び目を上げてみると、景色はさっきまでと全くちがって見えた。この木がなくなったら、今あたしがいるこの枝の上はただの空中になってしまう。そうしたら、これとぴったり同じ景色は本当に二度と見られなくなるのだ。

「おい瀬高、おりろ」

「お前ばっかりずるいぞ」

 あたしが景色との別れをおしんでいると、それをじゃまするように郡くんと桐畑くんが声をかけてきた。宗像くんもいる。ヒコじいのすがたが見えたので、サッカーをやめてこっちに来たのだろう。

「なんでよ。あっちでサッカーやってれば?」

「うるせえ、ハーフタイムなんだよ」

 そう言って郡くんはどんどん木に登ってくる。桐畑くんと宗像くんも後に続く。宗像くんは太っていて体が重そうなのに、そんなことは物ともしない様子だ。三人ともあっという間にあたしより高い枝に登り、そろってこっちを見下ろしてきた。

「早くどけよ」

「あんたたちはそこにいればいいでしょ」

「お前んとこが一番景色がいいんだよ。順番、順番」

 と、宗像くんが笑顔で言う。気に食わないけど、ここからの景色が一番なのは確かにその通りだった。枝が太いから先のほうまで行けて、他の枝にじゃまされずに景色を見ることができるのだ。まあしかたがない。順番だ。あたしは素直に木をおりることにした。

「なんだ、ずいぶんかんたんにこうさんしたな」

 地面に着くとヒコじいが笑って言った。あたしは手をはたきながら、あいまいに笑い返した。別にこうさんしたわけじゃない。ただなんとなくゆずってやってもいいかな、という気になっただけだ。理由はない。

「いつ切られちゃうんですか? この木」

 あたしは答える代わりにそうきいた。

「うん……、校舎の取りこわしといっしょだから、だいたい梅雨明けごろかな」

 じゃあ、最後に花だけはさかせることができるんだ……。あたしはせつなさをおし殺し、モチノキの幹をなでて別れを告げた。男子たちはみなだまって木の上から遠くを見ている。あたしはヒコじいにお礼を言って学校を後にし、日の高いうちに家へもどった。夕方になり、夜になった。──第二日。


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