第3話 苦手なものは何もない
「キュウ!お前、大丈夫か!?」
今日があの日だと……いつになったら忘れられるのだろう。
この苦しみはいつになったら僕を解放してくれるのだろう。
「……平気だよ」
そう答えてバーカウンターに寄りかかったけれど、好物のレッドアイすら飲みたいと思わない。
一年に一度、この日だけは―――…
『キュウ!見て見て!』
碧味を帯びたトパーズ色の長い髪を揺らして隣に座った彼女は、古びた本を開いて僕に見せた。
『また図書館から持ってきたの?』
『キュウに見せたかったのよ』
それは花の図鑑だった。
『下界に興味を持ち過ぎると叱られるよ』
僕がそう注意しても彼女はちっとも気にしない。それどころか、頁を捲る度に本の中に心を奪われ瞳を輝かせた。
『下界の花はキレイね!見て、キュウ』
『私、この花が一番好き!なんていう花なのかしら?』
彼女が指した花の名前を教えてあげる。
下界の文字をほんの少しだけ読めたから。
『サクラ……だそうだよ』
『サ・ク・ラ?』
『うん、そう』
『サクラ!サクラというのね!私の名に似ているわ!』
彼女はとても喜び、何度も何度も『サクラ』と繰り返してから言った。
『キュウ、いつかサクラを見に行きましょうね!』
この世界に落ちてきて、初めて見たサクラは彼女のように美しかった。
膨らむ蕾の可愛らしさも、広がる花びらの優雅さも、甘い香りを纏う神々しさも……
そして――
強い風に吹かれ、あっという間に散ってしまうその姿も……
彼女そのものだった。
病に倒れた彼女の部屋にこっそり忍び込んだあの夜。
『……キュウ、朝陽を克服してね』
『なぜ?』
『夜桜だけしか見れないんじゃつまらないじゃない』
彼女の肌はあまりに白くて、『下界図鑑』の"冬"の頁に載っていた"雪"のようだった。
『……あとね』
『まだあるの?』
『十字架も……ニンニクも……克服してね?』
なぜ?と笑う僕に彼女は言った。
『サクラのあるニホンにはね、十字架やニンニクが沢山あるんですって』
『キュウが克服してくれなきゃ、一緒に行けないでしょう』
彼女に恋したいつかの夜は、ヴァンパイアであることを恨んだ日。
彼女を失ったあの夜は、ヴァンパイアの欠点を無くすと決めた日。
ねぇ、キミは今どこにいるの?
僕は……キミの最後の言葉だけを頼りにこんなところまでやって来てしまったよ。
キミの言う通りに、朝陽も十字架もニンニクも……全て克服した僕に、苦手なものは何もない。
ただ、ただね……
この日だけ。
キミが死んだこの日だけは、どうしても克服出来ないんだ。
もうすぐ今年も桜が咲くよ。
『……キュウ……私、次生まれる時は下界がいいわ』
『……誰にも反対されずに』
『キュウと……サクラが見たいもの……』
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