<番外編> 僕は月に恋をする
その子は、感情の宿らないガラスの瞳で僕を撃ちぬいた。
その透明な輝きがまぶしくて痛くて、僕は初めて泣いたんだ。
僕は月に恋をする―
長く片思いしていた彼女が死んだのは、寒さがひときわ厳しくなる2月。彼女の方もどうやら僕に好意を抱いているだろうことを知り、そろそろ一つのけじめをつけようと考えていた矢先の出来事だった。
その日は本当に寒くて、あまり雪の積もらないはずの僕たちの町に、真っ白な雪が降り積もっていく景色を、僕はいまだに覚えている。
細かい記憶はあいまいだ。
何も分からないままに物事は進み、流されるようにその場にいた僕は、なぜ彼女がここにいないのだろうと思っていた。
いろんな儀式が終わった後、誰もいなくなったときに、改めて僕は彼女を見た。いつもより幼く見える、微笑みながら眠っているような顔をした彼女に、僕はこっそりキスをした。
その冷たさが悲しくて。
悲しくて哀しくて、涙なんか出なくて。
全てが終わり、彼女のいない日常が戻ってきたころ、僕は一滴も涙を流していないことに気が付いた。
日常はどんどん上滑りしていく。
いなくなったのは僕のほうだったんじゃないかと疑いたくなるほど、僕の暮らしの中心に僕はいなかった。
ただひっそりと、時をやり過ごしていくだけ。
時折思い出すのは、最後の口づけのときの彼女の顔と、あの日の雪。
春になり、夏が来て、秋が過ぎて、また冬になっても、いつまでもあの日の雪は僕の中に振り続ける。どんどんどんどん積もっていく。
毎朝僕は目覚めると、周囲を覆う白い雪をかきわけて、まずなんとか顔を出す。
毎日のその儀式を経ることで、やっと息ができるのだ。
目覚めに飲む熱いコーヒーも、社員食堂のランチについてくる薄い味噌汁も、この雪を溶かしてはくれない。だから僕はいつも、穢れのないこの雪の中にいる。
そのことが何とも言えず寂しくて、また同時にそれは僕を安心させるのだ。
まだ僕は、彼女のそばにいるような気がして。
そして、そんなことが続いていたある日。
残業が押しに押して、深夜に近い時間にフラフラと歩いていた時の事。
ふいに目の端に、真っ黒な人影が横切った。
あまりにも気になって、そちらへとゆっくり目を向けてみれば、真っ黒だと思っていた人影は喪服姿の女の子。その手には真っ赤なバラの花束を抱いている。
夜の街なのに、そんないびつな存在感は誰にも認識されることもなく、ただふわふわと歩いていた。
何故か僕はその女の子から目を離すことができなかった。
明らかに誰かを失ったであろうその子に、無意識のうちに自分を重ねてしまったのかもしれない。
なんでキミはそんなにツラそうなの?
なんでキミはそんなにツラそうなのに歩くことをやめないの?
言葉にならない疑問が次々と頭に浮かんでは消えていく。
そうやって見ているうちに、突然その子は立ち止まり、こちらを振り返った。
目と目が合ったとき、心臓を鷲掴みにされた思いがした。
その子の目は、絶望以外のなんの感情も宿していなかった。
純粋で透き通った、キレイな瞳。
悲しみも憎しみも通り越した、底の見えない深い絶望の目。
ああ、キレイだ。
そのガラスの目は、僕の絶望を撃ちぬいた。
彼女を失い、支えを失くした僕の心にまっすぐ飛び込んできた。
この子は月みたいだ。
夜に在るのに、本体だけでは輝けなくて。満ちたり欠けたり不安定で、それでも見つけてしまったら目が離せない。
知らないうちにぼろぼろこぼれる自分の涙に驚きながら、その涙が僕を覆う真っ白な雪を徐々に溶かし始めているのを感じた。
ああ、この子がいつの日か救われますように。この子がいつの日か自分のために泣けますように。涙を流しながら、そう僕は祈っていたのだった。
二つの月 マフユフミ @winterday
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