第8話

あの声は確かに「純也くん」の声だった。

たった1度だけ、一夜を共にしただけだったのに、彼は今のあたしを見つけた。


なぜ見つけてしまうの?

虚無の中にいるあたしを。

あたしの中の絶望に、なぜ気づいてしまうの?

たった一回抱いただけなのに。

なぜそんなにあたしが見えるの?


混乱したあたしは、声のほうと反対側に走り出した。

逃げる必要なんてないのかもしれないけれど。

声を掛けられたとき、とっさに「しまった」と思った。

何がどう「しまった」なのか、自分でもわからない。

それでもこの姿を見られるのはイヤだった。

真っ黒の喪服に身を包んで、地味に髪を束ねて。あたしの完全武装。

きっとこの姿が本当のあたし。

実体のないあたしの本当の姿。

そんなときに、今のあたしを知っている人間に会いたくなかった。

乱されてしまう、そう思ったんだ。

今のあたしが壊れてしまうのが。

着飾った実体のないあたしの中にある闇に、何か意味付けされてしまうのが、無性に怖かった。


ひたすら走る。

夜の中を、ただひたすら。

静かだった。いつもいる夜の中の喧騒がウソみたいに、今日の夜には音がない。

あたしの靴音しか響かない道で、ふと思い出したのはあの人とのデートだった。


あの人とのデートは夜が多かった。

お互い社会人同士、当然と言えば当然だ。

仕事のあとで待ち合わせて食事したり、たまの休みには昼過ぎまで寝坊して、夕方くらいから街歩きしてみたり。

そんな中でひそかにあたしが気に入っていたのが、夜の誰もいない公園だった。


夜の公園はやたらと静まり返っていて、昼間に見るのとは別の顔を持っている。

その静寂がどうにも心地よくて、二人並んで何をするでもなくブランコに腰かけていたものだ。

他愛のない話をして、缶コーヒーを飲んで。

穏やかな時間。

夜の中、ただ隣にあの人がいるというその事実がいとおしくて、この時間が過ぎてしまうのを心から怖れていたそんな夜。


そんなセンチメンタルな空気も、幾分子供じみているあの人は、すぐにぶち壊してくれた。

「ブランコ、どっちが高くまで漕げるか競争だ!」

「次は鬼ごっこするぞ!」

デート帰りだというのにすぐそんな遊びに夢中になって、まじめに遊ぶ。


そんなあの人が好きだった。


そう。好き、だったんだ。


あの夜はもう来ない。

同じような顔した夜の中、あたしは独り走っている。

独りで、闇を連れて。

走って走って、どれくらい走ったのかもう分からない。

長い時間走り続けた感覚に疲れを覚え始めたとき、目の前に寂れた公園の姿が飛び込んできた。

まるであの頃みたい。

いろんな意味で胸が痛い。

それでも、足も体力も限界に近づいていたあたしはそこへ飛び込むしかなかった。


ひっそり静まり返っている夜の公園。

あの頃よく行った公園みたい。

ただ一つ違うのは、あたしの隣にあの人がいないこと。

あたしはたった一人で夜の公園に対峙する。

滑り台も、ジャングルジムも、砂場も鉄棒も、まるで眠っているように静かで、暗闇の中街灯に照らし出されている。

あたしはそっとブランコまで足を進める。

白い支柱に、少し錆びた鎖。

木の板は黄色で、最近塗りなおしたようにくっきり色づいている。

それにそっと腰かけ、鎖を握る。

ほんの少し鉄の匂いがして、ああ、ブランコを握っているんだ、そう思う。

なんとなく見上げた空には満月には少し足りない月が輝いていて、あたしはすぐに目をそらした。

うつむいたまま、握った手に力を込める。

漕ぎ出すでもなく立ち上がるでもなく、どこにも行けない。まるで今のあたしそのもの。


そしてそのとき、不意に鎖がぐいっと引かれた。驚いて振り返ると、そこには「純也くん」が立っていた。


「やっと追いついた」

やさしく微笑む。

まさか追いかけてくるとは思わず、それに追いつかれるとも一切思っていなかったあたしは、この思いも寄らない展開に呆然とする。

「もう一度、会いたかったんだ」

そんな言葉をどこか遠くの出来事のように聞いていた。

「ちょっとお話、しよう?」

真剣な眼差しに、あたしは頷くしかなかった。



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