第10話
「初めて見たとき思ったんだ」
彼はそう言って微笑んだ。
「この子、まるで月みたいだ、って」
あの人の声に重なる。
もうやめて。続きを聞くのが怖い。
似ても似つかない二人なのに、なんで同じことを言うんだろう。
「とてつもない何かに絶望しているのに、決して縋ろうとしない。それでも一人が怖くて必死に何かを繋ぎ止めようとして。真っ暗な夜の中でそっと光っている月みたいだった」
そうなんだ。
あたしはそんな風に見えていたんだ。
「満ち欠けする月みたいな不安定さがすごくキレイで。たぶん、一目惚れ、したんだと思う」
彼のまっすぐな声が、心に落ちてくる。
「でも、ただ見てるだけでよかったんだ。喪服の女の子がさまよう夜の景色を。そして、その女の子がもうさまよわなくても良くなったとき、俺も救われる、なんて勝手に思ったりして」
正直、あの頃のあたしをきちんと視認できていた事実に驚いている。
そして、そんな姿に自分を重ねてしまうほどに傷だらけだった彼のことを思った。
きっと、痛かったのだろう。
ただただ、胸が痛かったのだろう、そう思う。
「だから、夜の街で見かけなくなったとき、良かったなぁって思ってたんだ」
ほんの少し声のトーンが下がった気がした。
それはそうだろう。
喪服でさまよわなくなった女は、見知らぬ誰かに抱かれる夜を繰り返すようになっていたんだから。
「キミが救われていたなら、それで本当に良かった、て。でも違ったんだね」
なんとなく後ろめたくて、ついうつむいてしまう。
それに気づいた彼は、くしゃりとあたしの頭を撫でた。
あの日の朝みたいに。
「たまたま誘われて行ったあのコンパの日、本当にびっくりした。まさかあんなところで会えるなんて思ってなかったから。それで、いろいろ話しを聞いてみて、さらにびっくりした。この子はまだ全然救われていなかったんだって分かったから」
その通り、あたしは救われていない。
救われてはいけない。
「ナオちゃん」
彼はまっすぐあたしを見た。
真剣な眼差し。キレイな目だな、と場違いなことを思う。
「泣いていいんだよ」
え、今なんて?
「ツラいときは、泣いていいんだよ」
全く予想もしていなかったことを言われると、人間は本気で口をあいてぽかんとしてしまうようだ。
そんな間抜けヅラしているあたしには構わず、彼は話し続ける。
「だって、泣いてないでしょ?ツラかったのに」
ツラかった。
そう言われれば、本当にツラかったんだろう。あの頃のあたし。もう、そんな感覚さえも分からなくなってしまっているけれど。
「ごめん。美咲ちゃんからある程度聞いた」
なぜそこに美咲が出てくるのか?
でもわたしと彼の接点なんて、出会ったコンパの主催者だった彼女しかいないのも事実で。
「美咲ちゃん、あんな感じだけどすごくナオちゃんのこと心配してたよ。ナオちゃんが泣いてくれないから、自分には男の子を紹介するしかできないって、悔しそうに言ってた」
まさか美咲がそんなことを思っているなんて知らなかった。友達のようで、本当に友達なのかもしれない女の子。
「ツラかったね。しんどかったね」
やさしく背中を撫でられて、不意に涙腺が緩みそうになる。
でもあたしは、ツラいなんて言える立場じゃないのだ。
だってあの人に選んでもらえなかったのだから。
最期の旅立ちのお伴に選んでもらえなかったのだから。
「誰がどうしたとか関係ない。大事なのはナオちゃんがどう感じてどう傷ついて、どうツラかったかでしょ?」
そうなんだろうか。
何も知らないまま取り残され、ずっと立ち直れなくて。
あの人の奥さんになりたいと、夢見たこともあった。いつか一緒に暮らして子どもを生んで、そんなことを考えたこともあった。
でもそれは何重にも叶えられることのないただの夢で、あたしがあの人と過ごした時間ごと、あたしが生み出した幻想のような気がしていた。
それにしてはずっと胸が苦しくて、痛くて、自分ではもうどうにもできなくて。
「泣いて…」
久しぶりに発した掠れた声。自分の声ではないくらいに震えている。
「うん」
彼は決して急かさず、相槌を打ってくれる。
「泣いて、いいの?」
「うん」
ついに抑えられなくなった涙がこぼれ落ちてきた。彼はあたしの顔を自分の胸に押しつけるようにして、背中を撫で続けてくれる。その掌は暖かくて、胸からは生きている彼の音が聞こえていた。
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