第5話

あたしの毎日は案外地味。

テキトーに働いて、テキトーに男と寝て、テキトーに眠る。

その繰り返し。

家賃5万3千円のアパートで、飢え死にしない程度に稼いで。

ナゼか歯医者の受付に座っている。

たまに、体だけしか知らないオヤジが患者だったりするけれど、それにももう慣れた。

仕事中の私は野暮ったい三つ編みで、薄い赤のフチの眼鏡をかけているから、向こうはあたしが昨日の女だとは気づかない。

単純なカモフラージュ。

仕事モードに入るための、あたしなりのエチケット。

覚えてしまえば仕事はごく単純だ。淡々と、淡々とこなす。

あたし以外に働いているのは午前中だけのオバサンと、午後2~3日来る学生二人だけだから、気が楽だ。

ピンクの白衣のワンピース、それにナースシューズ。

マニアにはたまらないかもしれないどのコスチュームも、今ではただの通過儀礼だ。

働く時のあたしの記号、ただそれだけ。


思えばあの人と出会ったのもこの歯医者だった。

あたしは当時新人の受付であの人は患者。

仕事終わりに駆け付けたのか、受付時間ギリギリの19時半少し過ぎに飛び込んできたあの人を、何となく可哀そうに思ったのが出会いだった。

「もう、無理ですか?」

ちょっと悲し気に聞かれたから、あたしの中のなけなしの母性本能のようなものがくすぐられたのかもしれない。

「本当は30分までなんですけど…」

あたしはそっとカウンターの置時計に手をかける。

時計の針をほんの3分巻き戻して、コトリとカウンターに戻す。

「あ、まだ29分です。ギリギリ間に合いましたね」

ちょっとたくらんだような笑顔でそういえば、あの人はみるみる顔を真っ赤にしてうなずいた。

「よ、よかったです。間に合って!」

あたしの演技に付き合って、ぎこちない笑顔。

「保険証と診察券、お預かりします」

何気ない風をよそおって、あたしは準備を始める。

ただ目の前のこの人のささやかな願いを叶えてあげられたことに満足感を感じながら。


その日、すべての治療が終了し、カルテや器具の片付け、そして軽い掃除を済まして外に出れば、もう20時半を過ぎていた。

「あー、今日は長かったな…」

無意識に独り言を言いながら、凝ってしまった肩と首を回しつつ外へと続く階段を下りると、

「すみません、僕のせいで」

突然目の前にさっきの患者が現れた。

「わっ」

誰もいないと思っていた道で、聞かれると思っていなかった独り言を聞かれ、思わず真っ赤になってしまう。

「驚かせてごめんなさい。でも、どうしてもさっきのお礼が言いたくて」

あの人ははにかんだように笑いながらそう言った。

「いえ、いいんです。なんとなくそうしたかっただけだから」

どぎまぎしながら答える。院内で見たよりも若々しい表情。治療後のせいか、少し疲れて見えるけれど、目はやさしく笑っている。

「お礼と言っては何ですが、もし良かったらお食事でもいかがですか?この先に安くておいしい店があるんです」

これはいわゆるナンパというものだろうか?

何一つ穢れを知らなかったあのころのあたし。とっさに警戒モードに入る。

「いえ、ごはんなら間に合ってます」

「あ、ご、誤解しないで!口説こうとかそんなんじゃなく、本当に助かったんだ。変な時間に歯は痛くなるし、でも歯医者は間に合いそうにないし。それを助けてもらったから、本当にお礼の気持ちだから。」

動揺しながら、つっかえつっかえして話すあの人を見てたら、自分の警戒心なんてどうでもよくなってしまう。

「わ、分かりました。実際ごはんはまだですし。おいしいお店、教えて下さい」

「よかった~!」

あの人は本当にうれしそうに、ふわりと目元をほころばせた。

「じゃあ行きましょう。こっちです」

そういって連れて行ってくれたのは、おいしい和定食が手ごろな価格でいただける、こじんまりしたお店で。

まったく今どきではないお店のチョイスに人柄が伺えるような気がして、あたしはひとり笑った。

そしてこれが、あたしがどうしようもなくあの人に惹かれていった、すべての始まりだった。

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