わたし、踊ってる

 あー。もう。むり。帰る。モチベーションが一気に下がったわ。時計を見ると二十時半過ぎ。

 オフィスにはまだいくらか残っている人もいるけれど、わたしの部署はもうみんな帰っている。

 このまま残業していても捗る気がしなかった。今日はもうやめよう。納品までもう一ヶ月を切ったのになんでわたしだけが残業してんだ。

 もっと危機持って欲しい。特にプロジェクトマネージャー。スケジュール管理するのがあんたでしょうが……。もう知らん。

 わたしはパソコンを落とし、タイムカードを切って外に出た。


 会社の外に出ると、夜風が冷たく肌に刺さる。三月に入ったのに夜はまだまだ寒い。マフラーの中に鼻元まで顔を突っ込む。

 いつものとこで、一杯飲んで行くか。

 渋谷ヒカリエ、渋谷ストリーム、渋谷スクランブルスクウエアと次々に建つ高層ビル。それから銀座線渋谷駅の高架化と移転。渋谷は毎日どこか工事していて、毎日どこか新しくなっていく。そんな変化の激しい渋谷東口周辺。だけれど昔からずっと変わらないものもあった。

 高層ビルの影に紛れながらひっそりと営業しているバー。渋谷の変化の歴史とともに三十年近くそこで営業している。

 わたしも新卒でWEB制作会社に入社してから、かれこれ五、六年は通っているお店だ。何か悩み事やモヤモヤすることがあると、決まってそのバーのマスターに話すのだ。

 マスターはいつも的確なアドバイスをくれる。


 カランコロン。バーの扉を開けると昔ながらのベルの音が店内に響く。

 暗く照明が落とされており、お洒落なBGMが静かに流れている。雰囲気の良いバーだ。

 カウンターに六席、四人がけのテーブル席が二つ。十人ちょっとでいっぱいになってしまう小さなバーである。

 お客はカウンターに一人、スーツ姿の男性がいるだけだった。

 男性がこちらを見た。何度かバーで見たことがある常連客だった。

「あ、どうも」男性が小さく頭を下げた。

「こんばんはー」わたしも挨拶をして、男性の隣、席ひとつ分空けて、カウンター席に座った。

「はい、おまたせー」

 奥からちょうどマスターが出てきた。

 ほくほくと湯気の立ったナポリタンが男性の前に置かれた。おいしそう。

 マスターはスラリと長身で、シルバーの短髪。口髭を生やし、眼鏡をかけている。とても六十過ぎのおじさんには見えないダンディなマスターだ。

「マスター、こんばんはー」

「おう。久しぶり。なに? 失恋?」

「違いますよー! もーう!」

 たしかに以前、マスターに恋愛相談したことはあった。まあ、結果その時は撃沈したのだけれど。

 あぁ。昔のことを思い出したら余計飲みたくなってきた。

「とりあえずわたしにもナポリタンちょうだい。あとミモザね」

「はいよー」

 マスターは再び奥へと消えた。

 カウンターの背面にはたくさんのお酒が並んでいる。ウィスキーだったり焼酎のボトル、様々な形のグラスがライトに照らされ輝いている。

 銘柄には詳しくないのだけれど、カクテルの名前はいくつか知っている。マスターがわたしに合ったカクテルを作ってくれるのだ。色味が綺麗だし、飲みやすくてついついたくさん飲んでしまう。

 隣からナポリタンの啜る音が聞こえてくる。トマトケチャップのいい匂いが漂う。お腹減ったなぁ。

 そういえば今日のお昼、時間が取れなくて、デスクで大豆バー二本で済ませたんだった。

 それもこれもプロジェクトマネージャーのせいだ。出来上がったデザインを見て「ちょっと違う」と言ったのだ。それはまあ良いとして、「どう違うのか」と問うと「俺は好きじゃない」と言ってきた。それもまあ良いとして、「じゃあどうしましょう」と問うと、「始めから作り直して」と言ったのだ。これは流石に許せない。

 デザインだから個人の好みに依存することは分かる。でもアートじゃなくて商業デザインなのだから、ある程度、先方の要望に沿ったデザインを作るのが基本だ。

 例えば、今回の場合はWEBサイトのデザイン案件だったので、デザイン性だけでなく、サイトを使うユーザーの使いやすさを加味したデザインにしたのだ。

 ある程度ラフを作って、構成について説明して、プロジェクトマネージャーも承認したのにも関わらず、「始めから作り直して」ときたもんだ。

 しかも納期は明後日。一から作るのに一週間はかかるのになに考えてんだ、ほんと。

「お待たせしました。ミモザです」

 カウンターからオレンジ色のカクテルが差し出された。

「ありがと」

 わたしはミモザに口をつける。口の中にオレンジの甘さとお酒の辛口が絶妙にマッチしている。おいしい。

 納期にも影響するので大幅なデザイン修正が起こらないように、中間承認を設けているのに、どうして簡単にそのルールをプロジェクトマネージャー自ら打ち壊すのかがよく分からない。しかも作り直しの根拠があるのかと思えば、ただただ「好きじゃない」という「俺」主観であるからなお困る。

 だから今日は午前中から大急ぎで修正作業に追われたのだった。明後日までに終わる気がしない。それ以前にモチベーションを上げられない。


「おまたせしました」

「待ってましたー!」

 テーブルの上にナポリタンが置かれた。たっぷりのトマトケチャップに絡んだスパゲッティ。具材はベーコン、玉ねぎ、ピーマン。昔ながらのシンプルなナポリタンだ。思わずゴクリと唾を飲んだ。

「いただきまーす」

 わたしはクルクル、クルっとフォークをスパゲッティに巻き付けた。ほくほくと湯気が上がる。フォークの上に乗ったピーマンがツヤツヤと輝いている。

 ぱくっと一口で食べる。口いっぱいにトマトの酸味とうまみが広がっていく。

「んー! マスター、んまい!」

「おう。そりゃよかった!」



「主観じゃぁーん、完全にぃー。あんたの好みなんて、しらねぇっつーのぉー」

「否定する方も、数値的根拠とかあると良いですよね」

「そうなのよぉー。わかってんじゃぁーん、マスタぁー」

 ミモザのあとに、モスコミュールを飲んで、ホワイトレディを飲んで、その後もう一杯飲んだあたりから、かなり気持ちよくなっていた。

 隣にいた男性はいつのまにか帰っており、客はわたしだけになっていた。

「もぉー、マスタぁー。お客さん、いないですよぉー。潰れちゃうんじゃないですかぁー。そぉーだ、マスターがプロジェクトマネージャーやったらいいんですよぉー」

「私はスケジュール管理とか苦手ですから」

「だーいじょうぶですよぉ。締め切りギリギリで全直し指示する上司だっているんれすからぁー」

「結果としてデザインが良くなるのならマイナスではないですよ」

「そぉーですけどぉー。もっと早くに言えってことですよぉー」

「彼が、早く気がついていたら、イライラしなくてもすみますしね」

「そうれすよぉー。明日も明後日もイラちれす」

「仕事、辛いですか?」

「ツラいれす。ツラちれす。ツラち。えー、ツラちってなに? つらたん? ぴえん」

 ふわふわ気持ちよくて自分でも何を話しているのか分からなくなってきた。

「じゃあ、仕事は嫌いですか?」

「嫌い! だぁーいきっらい! んっ! 好きに決まってらあー!」

 嫌い。だけど好き。やっぱりデザインするのが好き。そしてそれを見たお客さんが喜んでくれるのがもっと好き。

「好き、という気持ちが大事ですね」

 まあたしかに。その気持ちでまだもう少しできる気がした。

「そぉーでしょー。マスタぁー、マンハッタンちょーらい。マンハッタン!」

「今日はその辺にしておいた方がいいんじゃないですか?」

「いーの。明日のために飲むのらあー!」

「明日を考えるならその辺にしたほうが……」



「まもなく、最終電車がホームに参ります。下がってお待ちくださーい」

 東横線のホームは終電を待つ人で混雑していた。

 かなり飲んだ。あー。おしっこしたい。おしっこー。

 わたしは尿意を誤魔化そうとクネクネと腰を動かしていた。トイレに行きたいけど、トイレに行ったら終電を逃してしまうのだ。

 まあ終電なくなっても、タクシーに乗ったら会社に行けるだろう。

 ん? なんで会社に行くんだ? 家に帰るのだ。あぁ、結構酔っている。

 こんなクネクネ動いていたら、踊っている人に思われるだろうか。わたし踊ってる。ホームで踊ってる。らりるれらー。

 あー。おしっこしたいー。おしっこしたい。

 電車がホームに入ってくる。あと数時間後には出社しなくてはならない。

 朝からギュウギュウの電車に乗り込み、ブーブーいう上司の相手をして、納期に追われて仕事をする。

 それでも仕事は好きだから。好き、という気持ちを忘れずに明日もどうにか頑張ろうと思う。

 酔っているせいかなんだかとても幸せな気分だ。


 イヤホンを耳につけた。リズムに乗ってクネクネしよう。そうしたら変に思われない。

 あー。おしっこしたい。

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