芯
「それじゃ、お先に」
「はい。また」
スーツ姿の彼は軽やかにステップを降り、バスから降りて行った。
私は窓から外を見る。彼はポケットに手を突っ込み、暗い夜へと溶け込んでいった。
ぷしゅうと、バスの中ドアが閉まる。
「アイ、シュッパっしまーす」
運転手の独特なアナウンスとともに、重たい車体は動き出した。
その間、彼のことを見ていたけれど、彼は一度もこちらを見なかった。そりゃそっか。
そういう関係ではないし、当たり前といえば当たり前だ。だけれど少し期待していた自分がいた。
彼とは一年ほど前にバスで知り合った。いや、正確には一年ほど前から同じバスに乗っていただけで、知り合ったというほどの関係ではない。話したこともなければ名前も知らない、ただ毎日同じバスに乗る「見たことのある人」だったのだ。
私は毎朝七時に自宅を出て、歩いてすぐのバス停に並ぶ。七時五分着だけれど、バスはいつも定刻より少しだけ遅れてやってくる。
すでにそれなりに乗客が乗っていて、席もほとんど埋まっている。空いている席に座り、そのまま二十分バスに揺られながら職場に向かうのだ。
人々の生活リズムというのはそう大きく変わらないもので、バスに乗ってくる人、降りる場所はほとんど毎日同じだった。
どこの誰かも知らないけれど、顔だけは見たことのある人たち。彼はそのうちの一人だったのだ。
彼は私が乗った後、数個先のバス停で乗ってくる。彼が乗る頃、車内の席はすでに埋まっていて、彼はいつもバス前方の入口付近の手すりに掴まりながら立っていた。スーツ姿にスリムなリュック。背が高くて、満員のバスの中でも、頭ひとつ分飛び抜けて横顔が見えた。整った顔だな、と思っていた。
私はバス後方の少し高い席から前方の電光パネルを見る時に、彼の横顔が目に入っていたのだ。
私も彼も終点までバスに乗る。私は中ドアから、彼は前ドアからそれぞれ降りて職場に向かう。
それだけ。平凡な私には何かドラマが起きるわけでもなく、ただ「見たことのある人」として一年、同じ空間を共有しているただそれだけの関係。
帰りのバスも同じになることが多かった。
もともとそんなにバスの本数が多いわけではないので、きっと電車で通勤するよりも遭遇率は高いのだろう。
だから運命とか偶然とかそういった類のものでは無いのも分かってるし、実際、彼以外にも知った顔の人がよくバス停に並んでいた。
仕事が終わりバス停に行くと、すでに彼が車道の方に身体を向けて並んでいた。私は「あ、今日もいる」と思いながらその隣に並ぶ。近からず遠からずな距離感を保って。
やがて定刻より少し遅れて折り返しの始発バスがやってくる。バスに乗ると、彼は一番奥まで歩いて行き、車道側の席に、私は中ドア付近の歩道側の席にそれぞれ座る。他の乗客も全員乗り込むとバスはすぐに出発する。
それだけ。平凡な私にはやっぱり何かドラマが起きるわけでもなく、そのままバスは進み、やがて彼が降りる停留所に到着し、彼はバスから去っていく。そして私も自宅付近の停留所でバスを降り、向かいのコンビニで「一日の二分の一の野菜が摂れるサラダ」と「味噌バターラーメン」どっちにしようかなんて散々悩んで、結局誘惑には勝てずに、家に帰るのだ。
彼については特に意識していたわけではなかった。朝の通勤時に「あ、今日もいるな」と思うぐらいで、夜の帰宅時にも「あ、今日もいる」と思うぐらいで、それ以外の時間、特段彼のことを思い出すことも考えることもなかった。
それが先月までのことだった。だけど今は彼のことが気になって仕方がない。
先月の始め、いつもと同じように帰りのバス停に彼が並んでいた。私がいつものように「あ、今日もいるな」と思った時、彼がこちらを見たのだ。別に私を見たわけではなくて、人が来たから何気なく見たというような仕草だった。
でも、私はなにを思ったのか、目があった瞬間、反射的に会釈をしたのだ。どうも、といった感じに。すると彼も、ペコリ、と会釈をした。
その日はそれだけだった。だけどそれは何だかすごく重要な意味を持つ出来事のように感じられたのだ。
その予想は当たったみたいで、彼は私の隣の席に座るようになった。
バス待ちをしている時に、「いつも会いますね」と彼に言われ、「はい、朝も同じバスですよね」と私が言い、「そうなんだ。それは知らなかった」と彼が言う。
「職場はこの辺りなんですか」と聞くと彼は会社の住所を教えてくれた。「そのビルの一階にある洋食屋さんおいしいですよね」と言うと、「よくランチで行くんだ」と彼も言う。「もしかしたらランチでも会ってるかもね」と。
話が盛り上がって、バスが来て、「せっかくなので、このまま話してきませんか」と彼と一緒に座ることになった。
背の低い私は、少し見上げるように彼の顔を見る。
バス停に並んでいる時は暗くてよく見えなかった顔が、車内でははっきりと見えた。しかもこんなに近い距離で見たのは初めてで、何だか妙に緊張してしまった。
十分くらい世間話をして、「それじゃ、また」と彼はバスを降りていく。
私も自宅付近でバスを降り、いつものコンビニに向かう。そして迷わず「一日の二分の一の野菜が摂れるサラダ」を買って、家に帰る。
そうやって何回かバスの中で話している時に、彼が自分の名前を教えてくれた。「見たことある人」から「知っている人」になった瞬間だった。
久しぶりに雨が降っていた。仕事を終え、職場にあった置き傘を借りて外に出た。
いつものようにバス停に向かうと彼が並んでいた。彼に挨拶をして一緒にバスを待つ。
いつも定刻より少しだけ遅れてくるバスが、十五分経っても来なかった。
「バス、遅いですね」
「道も混んでますね」
「なんか、事故でもあったのかもしれませんね」
雨は激しくなる一方で、傘をさしていても屋根のないバス停に十五分も立っていると、それなりに濡れてしまう。
「結構、濡れますね」
「ですね」
「バス来るまで、あそこで雨宿りしませんか」
彼はバス停の少し先にあるおしゃれなバーを指していた。
「良いですね。行きましょう」
私たちはバーに入りバス停が見える窓際の席に座った。
軽く一杯だけのつもりだったのだけれど、お互いの仕事内容がかなり近いことが分かり、すっかり意気投合して話が盛り上がった。
業界のあるあるネタを言っては笑い、同じような悩みを抱えているのが分かり共感した。
その間、窓の外を何回かバスが横切って行った。
そしていつのまにか恋愛の話になり、流れで恋人がいるかどうかって話になった。私はいない。だけれど彼はいるそうだ。
そっか。いるのか。
「彼女さん見たい」と言うと、彼はスマホを取り出して、彼女の写真を見せてくれた。可愛い子だった。
さっきまで静かだったはずの店内の音が急に煩く聞こえるようになった。
しかも彼は彼女と暮らすために引っ越すそうだ。
「バス通勤も実は今日が最後なんだよね」
あぁ、だからか。今日、彼が私を誘った理由が何と無く分かった気がする。
私はどう反応していいのか分からなくて、適当に話を合わせた。
「ちょっとトイレ」と席を立った。
個室に入る。お店の喧騒がこもった音でトイレ内に聞こえてくる。
なんだか急にひとりになった気分だ。
便座に座って横を見る。芯だけになったトイレットペーパーが寂しそうに残されていた。
それを見て思う。彼の心に近づけたと思っていたけれど、そうじゃなかったんだな、と。
トイレットペーパーホルダーから芯を抜き出すと、カラン、と乾いた金属音が個室内に響いた。
芯をゴミ箱に捨てた。
「そろそろ行こうか」
彼が時計を見て席を立った。彼女が待っているのかもしれない。
もし。もし私がここで「この後、うちに来ない?」なんて言ったらどうするんだろう。
彼は自分が降りる停留所を通過して、私と一緒にバスを降りることはあるのだろうか。
そんな未来は最初からなかったんだろうな。
明日の朝にはまたいつもどおり定刻より少し遅れてバスが来て、私はいつも通りバスに乗る。いつもと同じ見たことのある人ばかりの乗客。
人々の生活リズムはそう大きく変わらない。いつもと同じところで乗ってくる人もいれば、降りる人もいる。
ただ、その中に彼の姿だけがなくなるのだろう。初めからただそれだけだったのだ。
バーから出た私たちはバス停に並ぶ。
「結局、遅くなっちゃったね。ごめんね付き合わせちゃって」
いつのまにか雨は上がっていた。
「いえ。雨も上がったし良かったですよ」
「あ、そうだ。せっかくだから連絡先教えてよ。また仕事の話とかしたいし」
このタイミングでどうしてそんなこと言うんだろうと思う。
「あ、良いですね」
だけど私の口は勝手にそう言っていた。
ふたりはバスに乗る。最終バスだった。
バスは少しずつ彼の降りる停留所に近づいていく。
「行かないで」
言ってみてもいいかな。なんて考える。
言える訳ないけど。
「それじゃ、お先に」
スーツ姿の彼は軽やかにステップを降り、バスから降りて行った。
私は窓から外を見る。彼はポケットに手を突っ込み、暗い夜へと溶け込んでいった。
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