布団
人の目が怖かった。どこにいてもなにをするのにも、誰かが必ず自分を見ている気がして、自分の失敗を見つけては笑われるのではないかと、そう思うとなにも出来なくなってしまい、その場から動けなくなってしまった。
「これお願いしたいんですけど、大丈夫ですか?」
「今週までで良いので、これ作っておいてください」
「出来たら報告して」
ただそれだけの言葉なのに、年下の上司からそう言われると、自分はいつもビクビクしていた。
彼は社員からも取引先からも信頼されていて、とても人当たりの良い人だった。社員教育も熱心で、新入社員なんかは彼を慕っていた。
だからきっと自分に対しても親切心で言葉を選んで指示を出していたのだろう。
実際、直接的な暴言はなかったし、暴力も振るわれたこともなかった。
昨今パワハラは社会問題になっているから、その辺は会社としても気をつけているのだろうと思う。
でも自分にとってはそれでも息苦しくて、自分の仕事量の少なさを見られているかと思うと、その焦りと不安が常に付き纏っていた。
だから、「これお願いしたいんですけど、大丈夫ですか?」は「このくらいの仕事なら出来ますよね?」に聞こえるし、「今週までで良いので、これ作っておいてください」は「このぐらい時間あれば出来るでしょ?」と聞こえる。「出来たら報告して」と言われた時は、「まだ出来ないの?」と聞こえるのだ。
自分はこれでも頑張って仕事をしているのだが、どうしてもうまくいかない。
若い社員が多い中、自分だけ四十八歳と浮いた存在で、冷たい視線を感じるのが次第に増えてきた。
初めは日曜日の夜から憂鬱な気分になり、夜眠れなくなった。それでも明け方にはウトウトと少し寝て、朝にはちゃんと起きて定時に出社していた。
だけど次第に、通勤中に突然下痢を催すようになり、駅のトイレに籠り、下痢が治ってから出社するようになった。
他の社員が仕事をしている中、一時間遅れで出社する。その申し訳なさから「おはようございます」と声にならないような小さな声で言う。
「おはようございます」と返される言葉も「また遅刻?」と聞こえるし、目を合わせるのが怖かった。
そんなことが続くうちに家から出ることも出来なくなった。幸い有給休暇は二十日以上余っているから、ゆっくり休んだらなんとかなるだろうと思った。
だけど仕事を休むと今度は、八十近い母親が「あんた仕事いかんのか?」と問いただしてくる。
「体調悪いから休んでる」と言うと、「昨日も休んだろ。そんな悪いなら病院行け」と急かしてくる。
病院なんて当てにならない。形式ばった診察を一通りした後に、「精神的なものだ」と診断されるだけだ。「まずはゆっくり休んで、原因となるストレスを取り除きましょう」とそんなことしか言ってくれない。それが出来たならこんなことにならない。
「今日も休みます」と会社に連絡を入れ、「あんた、また家にいるんか?」と母親に言われ、そんな日々が一週間も続くと、自室からも出たくなくなり、自分は完全に引きこもってしまった。
そうなってしまうともう、上司の指示がパワハラだと訴える気力もなく、母親とやり合う気力もなく、とにかく一人になりたくて、「今日で辞めます」と一方的に連絡を入れ、仕事を辞めた。
そして自室の鍵を閉め、携帯電話の電源を切り、カーテンを閉め、閉じこもった。
「飯作ったから食え」
父親は数年前に他界し、自分は母と二人で暮らしている。
母親は自室に籠りっきりになった自分に食事を作ってくれるが、自分は食べない。母親も含め誰とも話をしたくない。
通販サイトでレトルト食品や栄養ドリンクを半年分ぐらいまとめて注文する。母親が宅配便を受け取り、自室の前に置いてくれる。
それを二日か三日に一回程度、部屋で食べている。食べたいから食べるのではなく、自分の空腹を満たすためだけの食事だ。おいしいと感じることもなくなった。
自室から出るのはトイレに行く時ぐらいだ。それから風呂には一ヶ月に一度入る程度だ。
いい歳して結婚もしない、仕事もしない、家に引きこもって親の年金で暮らしている。それがどういうことか自分でも分かっているつもりだ。
一時期は再就職も考え、自室のパソコンで求人サイトも閲覧したが、自分が新たに仕事をしている姿も、面接官と話している姿も全く想像ができなく、それ以前に外に出ることができないと思うと、何もかも投げ出したくなり、職探しを断念した。
本も読まないし、ゲームもしない。インターネットもテレビも見ない。インターネットとテレビは特に嫌いだ。たまにテレビをつけると知らないニュースが流れてくる。自分なんていなくても世界は動いていることが再認識させられる。同じ世界で違う世界。
何もすることなく、一日が過ぎていく。だからお金もかからない。
夜は眠れなくベッドの上で朝が来るのを待つ。子供の頃、友達と遊んだことを思い出す。
明け方が近づき、外の生活音が騒がしくなると、漠然とした不安が襲ってくる。仕事に行かなくちゃいけない。このままではいけない。分かっている。分かってる。だけど怖くて動けない。
十一時を過ぎ外の騒がしさがひと段落したころ、少し眠る。
風呂に行くのもトイレに行くのも億劫になり、風呂にはここ半年入っていない。
トイレはペットボトルに尿を溜めるようになった。大便だけは流石にトイレに行かざるを得ないため、その時だけ自室から出る。
用を済ませ自室に戻ろうとしたとき、廊下で母親に会った。久しぶりに見た母親の姿は、だいぶ腰が曲がっており、壁に手をついて歩いていた。自分と目があった時の母親は哀れむような寂しいような顔をしていた。自分が子供の頃の元気な母親の姿を思い出した。
自分は何も話さず自室に戻った。普段歩くこともないから、トイレに行くだけでおそろしく疲れる。
睡眠も食事も、排泄も億劫なことばかりである。何もしたくない。
通販サイトで注文したものが届かなくなった。母親が病に伏して寝込んでいた。
仕方なく自室を出てポストを開けると、大量のチラシと一緒に不在票が入っていた。
「玄関前に置いておいてください」
数年ぶりに人と話した。話し方をすっかり忘れてしまっていた。そして、数年ぶりに玄関を開けた。外は目が開けられないほど眩しかった。
自分はもう一生出ることのない世界だと思った。
半年分の食料と生活品の入った段ボールを自室に運び入れる。息切れするほど疲れた。
自室は足の踏み場もないほどゴミが溜まっていた。
トイレに行くのも億劫で高齢者用オムツを買った。これで大便でも部屋を出なくて済むようになった。
それからまた半年。注文したものを受け取るため、自室を出た。母親は布団に入ったまま冷たくなっていた。
驚くことも焦ることもなくそのまま母の部屋の扉を閉めた。明日は年金受給日である。母親はまだ元気に生きているのだ。
ふと、子供の頃、父と母と三人で温泉旅行に行ったことを思い出した。父と大浴場に入り、休憩処で母と卓球をする。客室の小部屋から見る景色に浮かれる。布団を並べて川の字になって寝る。翌朝、ロビーのお土産屋さんで金属製の剣のキーホルダーを買ってもらった。あのキーホルダーはどこに行ったのだろう。
荷物を運び入れると、自分はまた暗い自室へと入っていった。
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