会場設営

 逃げ出してしまった。ぼくは仕事を放り出してトイレに逃げてしまった。個室に入り、この後どうしようか迷っている。

 過去にも仕事が嫌で逃げ出したいと思うことが何度かあった。それでもグッと堪えて、成し遂げてきたつもりだ。だけど今回ばかりは、いたたまれない気持ちがいっぱいで持ち場を離れてしまった。

 一階から上がってくる荷物を業務用エレベーター前で待っている時に、向かいのトイレに逃げてしまったのだ。



 ぼくは学費のために、講義のない午後や休日に日雇い派遣の仕事していて、かれこれ一年半が経つ。その間、様々な仕事をしてきた。

 よくやっている仕事は、調理洗い場作業だ。夜間から朝方まで延々と皿を洗う仕事である。休む暇なく、次から次へと食器が追加され大変ではあるが、黙々と作業をすることができるのはぼくの性格に合っていた。

 その他にも、倉庫での仕分け作業、引っ越し作業、交通量調査、販促品の袋詰め作業などの仕事をした。

 派遣の時給はまちまちだ。たいていぼくがやりたくないと思う業務内容ほど時給が高い。深夜バイトや力仕事なんかも時給が高い。

 

 そして今日は百貨店でのイベント会場設営の仕事に入った。前にも行ったことのある仕事内容だが、設営作業中の雰囲気があまり好きではなく、積極的には入らないようにしていた。

 ただ、今月の給料が少ないため、「急募! 明日入れる方! 時給優遇!」という派遣会社からのメールを見て申し込んだのだ。



 集合時刻は二十時半。銀座の有名百貨店の裏路地に大型トラックが止まっており、ぼくらはそこに集まった。大型トラックの荷台が開いており、たくさんの什器が積み込まれていた。

 ぼくらはこれを搬入し、イベント会場を設営するのだ。荷台には設置業者の男が立っていた。

 彼は黒縁の大きなメガネにおしゃれな服装、細身の体型で、たぶん、彼を街で見かけたら設置業者の人とは誰も思わないだろう。「あ、ぼく、音楽活動してます」っていう雰囲気の人だ。

 彼は紙に書かれた派遣会社の名前を読み上げていた。ぼくらの派遣会社の他、四社集まっており、総勢で四十人近くがここにいる。 集まっているのは全員男。年齢はぼくらと同じ二十代もいれば、五十代のおじさんもいた。平均すると若い世代より四十代ぐらいが多くいるように思えた。

 この手の仕事のベテランもいるようで、「この前の新宿のやつ、何時に終わったっけ?」、「あれな、三時までかかったわ」というような会話も聞こえた。

 設置業者の男は人数を確認すると、ビブスを着るように指示した。

 ビブスとは、高校時代の体育の授業で使ったことのある番号が記載された赤や黄色のベスト状の服のことだ。

 スタッフと分かるように着るもので、色や番号には特に意味はない。ぼくは黄色の三番を着た。それから持参した軍手もつけた。

 

 設置業者の男はぼくらをそれぞれの持ち場に振り分けた。トラックから什器の入ったカゴ車を降ろし、業務用エレベーター前まで運ぶチーム、七階のエレベーター前でカゴ車を受け取るチーム、会場で設営するチーム。ぼくは一番メンバーの多い設営チームに振り分けられた。

「じゃあ、よろしく。上にあがるチームはヨージョーとテープ持ってって」と、トラックの壁と荷物の間に収まっている青い養生シートを指さした。

 引っ越しの仕事をした時にも養生シートはここに収まっていた。

 

 ぼくらは裏口の警備員がいる扉から、百貨店内部へとぞろぞろと入っていく。設営が完了するまで外には出られない。

 七階にあがり会場に着くと、そこは何もないだだっ広い空間が広がっていた。どのぐらいの大きさなのだろう。とにかくぼくの通う大学の一番大きい講堂よりも広かった。

 そこでは設置業者のリーダーらしき男が現場の指揮を執っていた。

 彼もまた細身の体型で、おしゃれひげを生やしていて、一見すると力仕事がメインの職に就いているとは思えない風貌だ。

「コンボはベーター前の廊下に並べて。木の箱は最後だから、あそこの奥だな」

 彼は専門用語を使いながら他の社員と話していた。

「お。来たか。ヨージョーはベーター前から廊下まで貼って。それから四人、こっちきて。誰でもいい」

 そう、ここではただの作業員。手が空いていれば誰だっていいのだ。一夜限りの仕事現場。だから変にいい顔をしようとするものいない。

「あー、もういい。そこの一番、九番、十二番、六番、こっちきて」

 誰も進んで前に出ないと、こうしてビブスの番号で呼ばれるのだ。

 こうしてぼくらはさらに細かく持ち場を分けられ、それぞれの場所で什器の組み立てを行った。

 鉄製の什器は、組み立てると、ハンガーラックやショーケース、棚になる。それらをリーダーの指示の元、整然と並べていく。

 どうやら有名アパレル企業のセール会場を作っているようだった。



「いいかー、このガラスは断面に衝撃が加わると、すぐに割れる。取り扱いには十分気をつけるように」

 リーダーが説明したのは、プレパラートを巨大にしたような一枚ガラスだった。先ほど組み立てた什器の棚として一枚一枚置いていくのだ。

 ガラスは、ガラス専用の木の箱に十数枚並べて収められており、そこから一枚取り出し、ひとりで運び、ガラス棚を設置する。これの繰り返しだ。

 時刻はすでに二十三時半を過ぎており、疲労が出てきたころだった。ガラスを運んでいたぼくは、ちょっとした不注意で鉄製の什器にガラスをぶつけてしまった。

 「あ」っと思った時にはもう遅かった。ガラスは大きな音を立てて、一瞬で粉々に割れてしまった。ガラスを持っていた手だけが手持ち無沙汰そうに空中を掴んでいた。

「そこ! 何やってる!」会場に怒号が響いた。

 

 設置業者の社員からほうきとちりとりを渡された。

「明日のイベントで客が怪我でもしたら大変だからな。しっかり片付けろ」

 そう言われ、他のメンバーが設営作業をしている中、ぼくは三十分間ずっと、自分がやってしまったことの後片付けをしていた。

「申し訳ございませんでした」と片付けの報告をリーダーにすると、「お前はもういい。ベーターまでコンボ片付けろ」と持ち場変更を言い渡された。


 ぼくは挽回しようとエレベーター前で必死にカゴ車の片付けを行った。でもガラスを割って以降、他のメンバーの視線が冷たいのを感じていた。

 こいつと仕事して失敗でもしたら怒られる。そう感じ取れる視線に気づいた。

 だからぼくはもうこの場にいるのが耐えられなくなって、エレベーター待ちをしているひとりの時間に、ぽっかりと口を開けたトイレの入り口に吸い込まれるように入っていったのだ。

 そしてそのまま個室へと逃げ出してしまった。このままここにいるうちに設置作業が終わってしまえばいい、と思った。

 ぼくは仕事を放り出してトイレに逃げてしまったのだ。

 今までこんなことなかったのに。でも、この後どうしようか迷っていた。

 こうしてぼくが逃げている間にも時給は発生していて、しかもサボっているぼくの分も働いている人がいるのだ。

 いつだったか、引っ越しの派遣で軽い荷物ばかり運んでいる人を思い出した。


 自分でも良くないことだと分かっていた。

 だからぼくは、ひとつため息を吐いた後、個室の扉を開けた。

 やり遂げよう。こんなことで逃げ出してはいけない。

 ぼくはトイレを後にした。


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