夜行バスに乗る理由
「どこやー。わからーん」
わたしはバス乗り場を探して駅前をうろうろとしていた。時刻は二十二時二十分。二十二時三十分に梅田発―京都駅経由の新宿行きバスが出発する。
余裕を持って家を出てきたのだが、案の定バス乗り場にたどり着けない。
梅田周辺は本当にややこしい。地下街は迷路のようで来る度に迷うし、駅前の家電量販店も歩行者デッキが出来る前までは行きにくかった。
わたしは自宅も職場も堺市で、普段あまり梅田までは出かけない。その上、今回が初めての夜行バスだ。
だからバス停の場所も迷うだろうと、事前に地図をみて確認していた。していたのだが。だけど、やっぱり迷った。
高速バス各社でバス乗り場が異なり、しかも大阪駅周辺に点々としているため、行き場所を間違うと、あっちこっち歩かされることになる。
「最悪やー。間に合わん」
もうバス停を探すのを諦めて京都駅に向かおうか。今から電車に乗ったら、わたしが乗ろうとしているバスよりも先に京都に着ける。
それで後から来るバスに乗ったら良いんだ。梅田のバス乗り場の分かりにくさと比べたら、その方が良い気がした。
そんな半ば諦めていた時、交差点の向こう側に高速バスが止まっているのを見つけた。
「あれやー。ゼッタイ、あれや」
わたしは小走りでバスに向かう。横断歩道を渡りバスに近づく。間に合って。
バス停前には、バスを待つ人はもう誰もいなかった。みんな乗り終わった後で、発車するギリギリの時間だったようだ。
時計を見ると出発予定時刻から一分経過していた。わたしが乗るとすぐにバスは出発した。何とか間に合った。
バスに揺られながら、チケットに記載された指定席を探す。前方では若い男女のグループがわいわい騒いでいる。
奥へ進むと、ノートパソコンでせわしなく文字を打ち込んでいるスーツ姿の男、ギターケースを大事そうに抱えている若者、楽しそうに旅行雑誌を見ている女性二人組などがいた。
さらにバス中央部まで進むと、左側部分に座席がなくなり、代わりに胸の高さほどのボックスが設置されていた。トイレである。
トイレは座席位置よりも低い位置に設置されており、数段のステップを降りた先にトイレの入り口がある。
そしてわたしの席は、そのトイレから通路を挟んで反対側の二列シートの廊下側だ。
窓側には高齢の女性が座っていた。自分の母親よりも少し年齢が上にみえる。六十代後半ぐらいだろうか。夜行バスは若い世代が使うものだと思っていたので、高齢者が乗っていたことに驚いた。
わたしは席番号を確認し、「すみません」と一言声を掛けてから、自分の席に座った。
スマホを取り出し、東京に向かうバスに乗ったことを友人にメールをしておいた。
このバスの到着場所は新宿バスターミナルだ。そこから羽田空港国際線ターミナルへの行き方を確認しておく。わたしの人生で東京に行ったことは数えるぐらいしかない。地元から近い梅田でさえ迷ったのだから、東京に行ったら絶対迷う自信がある。
電車だと六百円ちょっとで行けるようだが、その倍の値段を払うと、新宿バスターミナルから羽田空港への直行バスに乗れるようだった。わたしは確実性を取り、バスで行くことにした。
「ちょっといいですか?」
ふと、隣の女性がトイレを指さしながら席を立とうとしていた。
「ええ、どうぞ」
わたしは素早く立ち上がり道を空けた。
「どうもありがとう」
女性はそう言うと席を移動し、トイレのステップをゆっくりと降りていった。腰が曲がっているわけではなかったが、猫背が激しく、暗めの服を着ていることも加えて、全体的に物哀しい印象を与えていた。
数分後、女性が戻ってきて、わたしはまた席を立った。
「ごめんなさいねぇ」
女性は謝りながら席に戻っていった。
しばらくするとバスは京都駅前に着き、数人の乗客を乗せて再び走り出した。高速道路に入った頃に消灯時刻になり、バス全体の照明が落とされた。
明日は朝から観光案内だ。数回しか行ったことのない東京を、このわたしが案内する。一日中歩き回るので、今のうちに寝ておきたい。
バスの走行音を子守歌代わりに、目をつむった。
「ちょっと、いいですか?」
バスに揺られ、うつらうつらしていたところ、再び隣の女性に声を掛けられた。車内は暗い。
「トイレ、いいですか?」
女性は先ほどよりも小声で話しかけてきた。
「え、ええ」
女性はまたゆっくりと席を移動し、ステップを降りていきトイレへと入っていく。
スマホで時刻を確認すると、照明が落ちてから五十分ほど経過していた。
トイレ付きのバス。この席、失敗だった。
初めての夜行バスで、トイレが近くにあった方が安心だろうと、この席にしたのだが、窓側席の人のことを全く考えていなかった。
これでは隣の女性がトイレに行く度に、席を移動しなくてはならない。
しかもわたしはこのバスのトイレは使わないだろう。
これは乗って分かったことだが、トイレに行っていることが他の乗客から丸見えなのだ。どのくらいの時間入っているかも見られているし、水を流す音が微かに聞こえる。さらにトイレの扉が開いた瞬間、若干臭いが席まで漂ってくるのだ。
こんな見世物になるようなトイレ恥ずかしくて使えない。
「何度も悪いねぇ。席、替えましょか」
トイレから戻ってきた女性が申し訳なさそうな顔をして提案してきた。
「いいですか?」
「ええよ。気にせんで。悪いのはこっちやし」
それじゃあ、とわたしは窓側の席に移った。気の利く女性で助かった。
「年寄りはトイレが近くてな。トイレ付きは助かるわー」
たしかに女性の言うとおり、頻尿の方にはありがたい設備なのだろう。トイレ付きバスは実は高齢者向きなのかもしれない。
「東京には何しに?」
わたしの方を見て小声で尋ねてくる。周りの乗客は就寝していて、静かだ。
「海外にいる友人が、朝一の飛行機で日本に。だから観光案内を」
「そうか。楽しそうやなぁ」
「ええ」
女性はそう言うと、一瞬、顔に暗い影を落とした。
わたしが朝一で東京に着きたいから夜行バスを選択したように、高齢者がわざわざ夜行バスを選択したのも何か理由があるのだろう。だけどわたしにはそれを尋ねる理由もなければ、興味もなかった。
だからそれ以上会話は続かず、お互いまたひとりの世界へと戻っていた。
そしてわたしは再び仮眠を取った。
夜行バスに乗る理由。人それぞれである。
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