旅の終わり

 夏の終わり。半袖では少し肌寒く、かといって上着を着込むほど寒くはない、そんな季節が変わりゆく途中。僕はひとり、帰りの夜行バス乗り場の列に並んだ。

 荷物はリュックサックのみ。ここへ来るときと何一つ変わらない荷物の量だ。お土産一つ買っていない。僕は何か変わっただろうか。

 例えばこう、お土産という「モノ」は買わなかったが、旅してきた場所を心に新しく記憶するかのように、あるいは美味しい料理を食べ、身体の中の細胞がキレイに入れ替わるかのように。

 表面上の変化というよりも、目に見えぬところで、内面的に何か変化があったのならそれでいいんだ。僕は何か、変わっただろうか。

 薬指にはめた指輪を右手でくるくると回した。


 バスが京都駅八条口のバスターミナルに入ってきたのが見えた。

 大阪梅田発―京都経由、東京新宿行き高速夜行バスは、二十三時三十分に予定通り京都駅前に到着すると、 僕らを乗せ、すぐに出発した。

 週末の金曜日とあってか、「三列シート(二席+一席)・トイレ付き」バスの座席はすでに満席に近い状態だった。

 出張中のサラリーマン、朝からテーマパークで遊ぼうとしている男女のグループ、すでにいびきをかいて寝ているおじさん、仕切りに咳き込むおばさんなど。みなそれぞれの目的や思いを持って、六時十分に着く新宿駅へと向かうのだ。

 僕はチケットに記載されていた指定席に座った。バス前面の独立一席だ。プレミアムシートらしいが、長時間座っていたら疲れてしまいそうな座り心地だ。交通費にはあまりお金をかけなかったので文句は言えない。


 バスは碁盤目状になった市街地を走る。車内からは小声で話をする声が複数箇所から聞こえてくる。僕の席からは話をしている人がどんな人なのかも分からないが、楽しそうに男女が話しているようだった。

 時たま、「シャーッ」と、窓についているカーテンを閉める音も聞こえてきた。

 十五分も走ると、バスはゆっくりと速度を落とした。窓の外をみると名神高速道路の京都南インターチェンジについたようだった。

 右へ左へとゆっくりとカーブを曲がった後、本線へと合流する。

 しばらくすると車内の照明が落とされた。さっきまで小声の話し声もいつの間にか、なくなっていた。

 バスはただ静かに、でも確実に目的地に向かって走っていく。

 窓の外は暗い。対向車線の車のライトと、一定の間隔で設置された照明灯が、光の線となって闇を切り裂いている。

 いくつもの車が、僕たちがいた京都方面へと戻っていく。

 光の線が作り出す光景は、まるで映画やアニメで見るような過去へタイムスリップするワープ中のようだった。

 あぁ。あの頃に戻りたい。何も知らずに、幸せな生活を続けていた頃に。ほんの少しだけだった幸せなあの頃に。

 そんなことを思ってしまった僕は、やっぱり何も変わっていないのかもしれない。

 薬指にはめた指輪を右手でくるくる、くるくる回した。

 

 

 僕らの出会いは婚活パーティーだった。僕はもともと女性にも結婚にもあまり興味はなかったのだけれど、友人の勧めで、「出会い」を目的とした大規模なパーティーに参加し、そこで彼女と出会い、恋に落ち、僕の人生は大きく変わったのだ。

 婚活パーティーはとても疲れるものだった。青のパーテーションで区切られた半個室になった部屋に通され、一対一で次から次へと自己紹介をしていく。くの字型をした黄色のソファは、ふたりが向き合うわけでもなく、隣り合うわけでもなく、絶妙な距離感を演出してくれた。さらにお酒を飲みながら軽食パーティーへと続き、気に入った女性がいれば、運営側を通して連絡先交換となる。

 普段、女性と話す機会が全くない僕にとって、一気に十五人近くの女性と話した経験は後にも先にもこれが最後だと思う。

 初めての経験に疲弊した僕は、婚活パーティーはもうこれっきりにしよう、と考えながら、会場の隅の方で休んでいた。

 だから僕は、その時「こういうのって、結構疲れますよね」と声を掛けてきた清楚な女性に親近感が湧いたのだった。

 

 その時の出会いをきっかけに僕らは交際をスタートした。

 ふたりで映画をみて、ふたりで買い物に行き、ふたりで食事をする。それからまた、ふたりで美術館に行き、ふたりでカフェで話し、ふたりで僕の部屋に行く。手を繋ぎ、キスをして、そして僕は初めて女性を知った。

 ふたりで遊園地に行き、ふたりで海を見て、ふたりで旅行に行く。

 ひとりだった僕は、なんでも「ふたり」でするようになった。

 そして僕は彼女にプロポーズした。彼女はコクリと頷き、受け入れてくれた。

 婚約指輪の準備もしていなかった僕に、彼女は「結婚までお揃いの指輪をしたい」と言ってくれた。

 結婚指輪でも婚約指輪でもないけど、ふたりお揃いの指輪。嬉しかった。


 僕は窓の外の光を見ながら、左手の薬指にはめた指輪をくるくる回した。

 バスはゆっくりと減速していきパーキングエリアに止まった。頼りない小さな照明がバス内を灯す。十五分間のトイレ休憩だ。

 就寝していた乗客がちらほらと目を覚まし、トイレに向かう。

 僕も外の空気が吸いたくて、バスを降りた。夏の終わりのひんやりとした空気が身にしみる。もうすぐ秋だ。

 小さなパーキングエリアには、僕たちと同じような夜行バスや長距離トラックが静かに羽を休めていた。

 パーキングエリアの案内板を見ると、いつのまにか東京まであと半分の距離のところまで来ていた。

 この旅ももうすぐ終わる。僕は何も変わっていない。変わらなくちゃいけないんだ。彼女を忘れなくちゃいけないんだ。どこかでまだ夢をみている。薬指にはめた指輪を見ながら、彼女の笑顔を思い出した。あの笑顔は……。


 出発までまだ時間があるので、僕もトイレに行くことにした。

 清潔に保たれたキレイなトイレで用を足す。戻り際にふと個室に目を向けた。

 個室の扉が明るい黄色や青で配色されているのを見て、婚活パーティーの自己紹介ルームを思い出した。

 彼女との出会いを。彼女の笑顔を。そして彼女の泣き顔を……。

 彼女は言った。「実は私ね、五百万円の借金があるんだ。父が病気で」彼女は泣きながらそう言った。

 「結婚する前に、何とかしたくて」彼女はそうも言った。

 僕はなんの疑いもなく、彼女にお金を貸した。そしてそれっきり彼女は消えた。

 僕は友人に教えてもらい、それが結婚詐欺だと知った。友人の勧めで、傷心旅行に出かけた。

 でもなにも変わらなかった。何も。今でも彼女のことを好きでいる。

 忘れないといけない。彼女は詐欺師。そこに愛はなかったんだ。忘れないと。

 僕は個室の中に入る。薬指にはめた指輪をそっと外した。そして次の瞬間、僕はなんの躊躇いもなく、ぽっかりと開いた穴に向かって指輪を投げていた。

 スローモーションしているかのように、指輪は回転しながら水たまりに落ち、そして沈んでいく。

 便器の底に沈んだ指輪は歪んで見える。「大」のレバーを引いてそれを流した。

 さよなら。

 

 バスに戻ると、運転手が乗客の人数を数えていた。全員いるのを確認すると、バスは静かに新宿に向かって、そして朝に向かって走り出した。

 この旅行の終わりですべてが終わる。僕は何か、変わっただろうか。

 僕は何もついていない左手薬指を右手で触っていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る