もしもトイレがなくなったら

 僕は自宅でくつろいでいる時、便意を感じ、トイレに向かった。

 「お手洗」と書かれた照明のスイッチ、「換気扇 遅れて切れる」と書かれた換気扇のスイッチを立て続けに押す。カチッ、カチッと小気味良い打鍵感が連続して返ってくる。

 木製の、やや暗く落ち着いたブラウン色のドアを開け中に入ると、暖色系のLED照明に照らされた1畳ほどのトイレ空間が広がって……ない。中央にあるはずの便器がそこにはなかった。

「えっ?」

 あまりにも予想外な出来事につい声が出てしまった。

 便器があった場所には、まるで最初から何もなかったかのように白いタイル調の床が敷かれているだけだった。

 室内をよく見ると、吊り戸棚も温水便座の操作パネルも、トイレットペーパーホルダーも手洗いカウンターも、なにもかもがなくなっていた。

 ただの四角い空間となっている。テレビのドッキリ企画だろうかとも考えたが、備え付けのものを取り外すだなんて大がかりなことするとも思えないし、一般人の僕にそんなことが起こるとは思えない。

 リフォーム工事を申し込んだ記憶もないし、そもそも新築マンションなのに、リフォームする理由も見当たらない。

 では、なぜトイレにトイレがないのだろうか。いつからトイレはないのだろうか。

 最後にトイレに入ったのは、昨日の夜だ。酔って帰って、用を足した。その時はトイレがあったのをしっかり覚えている。いや、酒を飲んでいたので、その記憶自体も信じがたいが。


 理由はともかく、トイレがなくては用が足せない。ひとまず、この便意をなくすために、近くのコンビニに行った。


 しかし、あろうことか、コンビニのトイレもただの四角い空間となっていたのだ。

 コンビニだけじゃなかった。駅のトイレも、公園のトイレも、商業施設のトイレも、どこのトイレも、トイレであってトイレでないのだ。個室はただの箱、男性用小便器があった場所もただの壁。仕切りすらなくなっていた。

 この状況に唖然としていたところ、1人の男性がトイレに入っていた。後を追ってトイレに行くと、その男は男性用小便器があったところに向かい合っていた。

 普通に用を足しているように見える。

 不思議に思った僕は、男性の横に立ち、何をしているのか覗き見た。

 すると、陰部から排泄された尿が、放物線を描き、空間に消えていくのが見えた。まるでそこに男性用小便器があるかのように。

 男性が僕の盗み見に気がつき、いぶかしむ目でこちらを見てきたので、すぐに目を逸らした。

 男性は用を足すと、睨むような視線で再度こちらを見て、そのまま去って行った。

 僕の目には見えないが、本当はここに男性用小便器があるのではないかと思い、先ほどの男性が用を足した空間に向かって、恐る恐る手を伸ばして見たが、壁を触れるだけでやはり何もなかった。


 いよいよ、便意が抑えきれなくなり焦り出す。商業施設のトイレを各階見て回った。しかし、やはりどのトイレも、便器もトイレットペーパーホルダーもない、ただの空間ばかりだった。

 使用中の個室があったので、悪いとは思いながらも、扉の隙間から中を覗き見た。そこでは男性が空気椅子をするような体勢で気張っていた。気張れるような体勢ではないのに、そこに洋式便座があるかのように座っていたのだ。

 

 はやくどうにかしなくては。何もない個室に入り、そこで排泄しようかと考えたが、トイレットペーパーもない。

 この状況では、きっとどこのトイレも、僕にとってはトイレではないのだろう。

 小学生の時に、我慢出来ずに外で野糞をしたように、どこかでポケットティッシュをもらい、公園の隅の茂みでするしかないのか。

 いや。まだ見ていないトイレがあった。僕が見ていたのはすべて男性用トイレだ。女性用トイレなら、しっかりと便器付きのトイレがあるかもしれない。

 やってはいけないことと分かってはいたが、何しろ緊急事態である。

 僕は誰も見ていない隙に女性用トイレに入った。

 しかし、そこでもやはりどの個室も、ただの箱でしかなかった。

「きゃあーっ!!」

 ちょうど入ってきた女性が叫び声をあげた。僕は咄嗟の出来事に驚き、女性を押し退けその場から走って逃げた。


 いよいよ我慢の限界だった。近所の100円ショップで、トイレットペーパーを1つ買い、そのまま公衆トイレに向かう。当然、そこも便器のないトイレだった。しかしもう迷っている余裕はない。

 僕は個室に入り、何もない空間にしゃがみ、排泄をした。

「はあ……」

 ようやく排泄できた喜びから、ため息が漏れた。

 床をみると、自分のした排泄物が転がっていた。トイレであるのに野糞のような行為に背徳感を感じた。

 蛇のようなうねりをした黄土色のものから、とてつもない臭いが立ちこめてきた。臭気は一瞬で辺りを包む。吐き気がするほど臭い。

 本来であれば、便器に溜まった水が臭いを防ぐ役割を果たすのだが、それがないため、自分の出した排泄物の臭いがダイレクトに、鼻に入ってくるのだ。こんなにも臭いものだったとは。

 早く水で流してしまいたいが、それも出来ないため、せめて早くここから出ようと、トイレットペーパーを取るため、壁側に手を伸ばした。

 ようやくそこで、あるべきところにあるべきものがないことに気がついた。

 買ってきたトイレットペーパーで尻を拭き、自分の排泄物を隠すように、拭いた紙を被せ、逃げるようにトイレから出た。



 自宅に戻り、トイレを見たが、変わらずトイレにはトイレがなかった。

 翌日も、翌々日も、いつになってもトイレは戻って来なかった。

 尿は風呂場で行い、大便はトイレだった空間でビニール袋にして、可燃ゴミとして捨てた。ゴミの日までは排泄物がたくさん溜まっている。衛生環境が悪いが仕方がない。下痢気味の時などは最悪だ。

 清潔感を感じた白いタイル調の床と白い壁紙は、今では茶色いシミが所々についていた。


 世の中はそれでも変わらず動いていた。誰かがトイレがないなどと騒ぎ立てることもなく、みな普通にトイレを使っていた。僕の生活からだけトイレが消えたのだった。


 ああ、トイレが恋しい。

 温水便座付きのタンクレストイレ。操作パネルにトイレットペーパーホルダー、流せる水。手洗いカウンター。おしり洗浄のあの感覚が懐かしい。



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