トイレの扉越しに
「もう! ひとりにさせて!」
あいつはそう言って扉を閉めてしまった。
「おい、ここ開けろよ」
「やだ」
「いいから開けろって。ちゃんと話しろよ」
「やだ。放っといて」
俺はドアノブをガチャガチャと
「やめて! 壊れるでしょ!」
「じゃあ、出てこいよ」
「やだ。そういうのが嫌いなの」
「ちっ。……話するまでここにいるからな」
俺はその場に座り込む。またケンカしてしまった。
「話したくない」
またケンカしてしまった。わたしはその場に座り込む。
わたしだって仕事が遅い中、家事しているのに、なにもあんなに怒らなくって。
足を抱え込むようにして顔を伏せる。
「そうやって黙って、話すことを拒否すんなよ!」
扉の向こうで彼が叫ぶ。
こうなってしまった時の彼と話したって分かり合えない。何を話しても自分が正しいと思っている人とは話したくない。
「俺が悪いのか? 悪くないよな? おい」
「俺」が悪いんだと、わたしは思う。
「なんか言えよ。おい!」
彼が扉を大きく叩いた。
「やめてって言ってるでしょ。モノに当たらないで」
思わず話してしまった。
「お前がそういう態度取るからだろ!」
また大きく扉を叩く。
「やめてよ。そういうの、こわいの」
扉の外が静かになる。
じゃあ、どうすりゃいいんだよ。一方的に会話を拒否され、しかも俺が悪いような態度取られたら黙ってられないだろう。
だいだいあいつが何もしないから悪いんだ。
モノは散らかすし、掃除もしない。俺がいつも掃除してるだろ。あいつが散らかさなかったら、こんなに掃除する必要ないんだ。
「いつまでこうしてるんだ」
返事がない。
こういう態度が嫌いだ。言い返さないのは自分が悪いと認めているようなものだろう。素直に謝ればそれで済むのだ。
「おい!」
「おい」と言われても何も言うつもりはない。わたしは悪くない。
なんでわたしばかり攻められなければいけないの。夕食はわたしが作るし、洗濯も食器洗いもわたしだ。
自分だけが何でもやっていると思っている、ああいう彼の態度は嫌い。ああやって怒るのは自分の都合が悪いと認めているようなものでしょう。
分かっているなら謝ればいいのに。モノに当たって自分は悪くないだなんて。バカみたい。
「いつもそうだよな。都合が悪くなると一切会話しない」
「あなただってそう。都合が悪くなるとすぐモノに当たる」
「うるせぇ。お前が話さないからだろう」
「ほら。すぐ人のせいにする」
「人のせいじゃねぇよ。お前が悪いんだろ」
「なんでわたしばっかり攻めるの。あなただって洗濯物脱いだら脱ぎっぱなしじゃない」
ああ。言ってしまった。我慢してたのに。ますます言い争いになる。
「は? 人のこと言う前に、自分が直せよ、おい」
ほら始まった。だから話したくないのだ。
「おい! 雑誌散らかしてるのは誰だ? ドライヤー使いっぱなしにしてるのは誰だ? どっちが悪い? それともあれか? テレビのリモコン無くすのは良いことなのか?」
そんな揚げ足を取るみたいに細かいことばかり。そんなこと言ったら彼だって、作ったご飯は残すし、ご飯作っても食べずに寝る時もあるし、シャンプーもリンスも歯磨き粉も無駄使いするし、もっともっと細かいこと言ったら切りがない。でもわたしは言わない。
「もういい。分かったから。分かったから黙って」
「都合悪くなったんだろ」
「そうです。わたしが全部悪いんです。だからもうやめて」
「なんだ? その態度。おい!」
「叩かないでって言ってるでしょ。やめて」
「出てこいよ、じゃあ」
「やだって言ってるでしょ」
「はあ」
彼が大きくため息を吐いた。ため息吐きたいのはわたしの方だ。
しばらく沈黙が続く。その湯気が出ている頭を冷やしてくれ。風呂場に行って冷水でも浴びてきてくれ。
だいぶ時間が経ってから、彼は少し落ち着いたトーンで話し始めた。
「……一緒に住み始めた頃はこうじゃなかったのにな」
そうだ。あいつは今よりもっと家事をしていた。雑誌をその辺に散らかしたりしなかったし、こまめに掃除もしていた。
今のあいつは女を忘れたようにダラダラしている。
「あなただってそうじゃない」
あいつは優しい声色でそういった。
昔の彼は、今みたいに脱いだ靴下をその辺に放っておかなかったし、お皿だって洗ってくれた。わたしに気遣ってくれた。
お互い長く一緒にいる間に忘れてしまっているものがある。
「……お互い様か」
「お互い様ね……」
わたしは扉に寄りかかるように座り直した。
俺は扉に背中をつけるように座った。
「ちょっと言い過ぎたな」
「わたしも」
「少し気をつけるようにするよ」
「うん。わたしも」
「腹、減ったな」
「うん」
「飯、行くか」
「うん」
「出てこいよ」
「うん」
わたしは1時間ぶりにトイレの扉を開けて外に出た。
彼はいつもの優しい笑顔に戻っていた。
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