掃除の心がけ

 朝早くから引っ越し業者がやってきて、部屋の荷物を次々と外へ運び出していった。

 引っ越し先はここから車で10分ほどで、彼と過ごす新居である。彼は先週、先に引っ越しを終えていた。

 部屋は2LDKで、今よりだいぶ広くなる。キッチンは3口のIHコンロで、お風呂はミストサウナ付き、トイレは温水洗浄便座だ。

 どれもこの家にはない豪華なものだ。


「あ。それは掃除用具なので、運ばなくていいです」

 引っ越し業者――おそらく、大学生のアルバイトだろう――が、洗面所にあった蓋の開いている段ボールを持って行こうとしたので止めた。

 荷物がすべて運び終わったら、この部屋の掃除をしなければならない。

 わたしは昔から掃除が苦手だった。部屋には読みっぱなしの雑誌が散らかっているし、ドライヤーも化粧品類も出しっ放しなのだ。

 だから彼が家に遊びに来る前日は、毎回掃除しているのだが、彼が帰るとまたすぐに散らかってしまう。

 反対に彼の家はいつも綺麗で清潔を保っており、わたしとは正反対だ。

 彼が「一緒に住もう」と言ってくれてとても嬉しい。だけど、わたしのこの「掃除が出来ない部分」で彼を怒らせてしまわないか少し不安である。

 引っ越ししたら、しっかりと掃除するよう心がけようと思う。


 引っ越し業者はすべての荷物を運び出し、彼の元へ届けに行った。

 ものがなくなった何もない部屋を見回す。がらんとした部屋には、昼前の陽光が床を照らしている。壁は所々日に焼けて色が変わっていた。

 だいぶ長くこの家に住んでいた。ここに引っ越してきた頃を思い出し感慨深くなる。


 今日の夕方には明け渡しだ。管理会社の立ち会いが来る前に、少しでもキレイにしておかなければならない。

 掃除が苦手なわたしでも、ここまで何もなければ掃除しやすい。

 掃除用具の入った段ボールを部屋に持ってきて、早速掃除を始めた。

 スプレー式の洗剤を床に撒き、雑巾で拭いていった。日焼けした壁も背の届く範囲で拭いていく。

 寝室の、ちょうどベッドが置いてあった付近の壁に見慣れないシールが貼ってあった。

 切手大の小さなシールで、有名なピンクのウサギのキャラクターのものだ。

 どうしてこんなところに貼ってあるのか少し思案し、思い出した。元カレが貼ったのだ。あの当時、わたしはこのウサギのキャラクターが好きで、よくグッズを集めていた。

 元カレがそのキャラクターデザインのマグカップを買ってきてくれて、箱に付いていたシールを寝ながらここに貼ったのだ。

 なんだか懐かしい。すっかり忘れていた。そういえばマグカップはどこにいったのだろうか。荷造りの時に見なかった。


 部屋の窓を外面、内面ともに雑巾で拭いた。雑巾は雨風による砂やほこりで真っ黒に汚れた。窓掃除なんて、この家に引っ越して初めて掃除したかもしれない。

 わたしはよっぽど掃除をしないのだと改めて認識した。


 昼が近くなったので、一旦休憩することにした。

 彼と電話をし、お互い状況を報告した。わたしの荷物はしっかりと届けられ、引っ越しは無事完了したそうだ。彼は缶コーヒーをお礼に渡したと言った。彼らしい。

 わたしのほうも大方掃除が終わり、残すところは水回りだけだと伝えた。彼は「手伝いにいこうか」と言ってくれたが、そこまで大変な作業ではないので「大丈夫だよ」と断った。

 近くのコンビニで買ってきたおにぎりを食べ、軽く休んだ。


 午後はキッチンから掃除に取りかかった。

 キッチン掃除は意外に楽だった。本来水回りで汚れが目立つところなのだが、料理好きのわたしはキッチン掃除だけはこまめにしていたのだった。

 シンクの汚れを洗剤で浮かし取る。ガスコンロは今回の引っ越しで処分したため、コンロ台自体はあまり汚れていない。油汚れが落ちる洗剤でキッチンの壁や換気扇回りを掃除していった。

 元カレも今の彼も、わたしの料理の腕に惹かれたのである。

 今の彼はわたしが料理を作ると「うまい、うまい」と毎回残さずぺろりと食べてくれるのだ。

 そして彼と選んだ今回の引っ越し先は、料理がしやすいようにとIHコンロ、シンクも大口のものなのだ。今から楽しみである。


 お風呂場を掃除し、残すところはトイレのみだ。明け渡しの時間には何とか間に合いそうだった。

 トイレの床を雑巾で拭く。掃除機でゴミを吸ったことはあっても、床を拭いたことはなかったかもしれない。結構汚れていた。

 ステンレスのトイレットペーパーホルダーの汚れを拭き取ると、顔が映るくらい新品のようにピカピカになった。

 アルカリ性の洗剤を便器の中に回しかけ、トイレブラシでこすっていく。それからトイレの掃除シートで便座と便器を丁寧に拭き取った。

 陶器だからか掃除をすると汚れはすっかり消え、つやつやなった。あまりの違いにほかの場所よりも掃除の達成感が得られた。

 部屋やキッチンのように彼氏との思い出もなければ、わたし自身の思い入れも特にない場所だ。

 ただのトイレ。ただ、こうして丁寧に掃除をしてキレイになっていくのを見ると、もう少し普段から掃除してあげても良かったのかなと思った。


 一通り掃除を終えた頃に管理会社の担当者がやってきて、鍵を返却した。


 長い間、お世話になりました。

 心の中でそうつぶやき、家を後にした。

 

 今度の新居では、彼のためにも、そしてわたし自身のためにも掃除をするようにしよう。



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