駅のトイレ

 あれは夏の暑い日でした。

 私はその頃、大きな案件を任されていて、連日、残業が続いていました。あの日も、眠たい目を擦りコーヒーを飲みながら、日が変わる頃まで会社にいたのを覚えています。


 ビルの集中管理で制御されているエアコンはとっくに切れており、オフィス内は蒸し暑く、とても仕事をする環境ではありませんでした。

 私の他、数人がオフィスに残っていましたが、皆、各々のデスクに置いた小型の扇風機の風だけを頼りに仕事をしていました。

 私は、暑さと疲労で働かない頭を無理に動かし、期日間近の案件処理を行っていました。

 ふと、終電が迫っているのに気がつき仕事を切り上げ、会社を出ました。

 外に出ると、肌にまとわりつくような生ぬるさで、オフィスとはまた違う不快な思いをしました。

 私は郊外の実家から通勤しており、各駅停車で50分、快速でも40分、電車に揺られています。

 終電を逃してしまうと、帰る手段がなくなってしまうので、急ぎ足で駅へ向かいました。

 

 終電には飲み帰りのサラリーマンがアルコール臭と共にわんさと乗っていました。

 飲み屋の延長戦のような満員電車も、しばらく走るとちらほら座れるほどになりました。

 私の通っているところがよほど郊外なのか、長距離で乗る人があまりいないのかは分かりません。

 降車駅までまだ30分近くあります。私はようやく席に座りました。

 右隣には太ったサラリーマン、左隣にはたくさん荷物を持った老婆と、肩身が狭い思いをする席でしたが、座れるだけでもありがたかったです。


 ガタンゴトン、ガタンゴトンと電車の走行音で目が覚めました。

いつの間にか眠っていたようで、私の両隣はすでに空席になり、車両全体の人の数も随分と減っていました。

 今どの辺りを走っているのかを確認すると、次が降車駅でした。危うく乗り過ごすところでした。

 まだ眠気が完全に覚めたわけではなく、油断すると寝てしまいそうでしたので、中吊り広告を見て、気を紛らわしていました。

 すると、対面に座っている人物が、ずっとこちらを見ているのに気がつきました。

 「睨みつけている」と言った方が正しい表現かもしれません。

 ボサボサの長い髪に、ボロボロの服。一体いつからいたのでしょうか。そしていつから見ているのでしょうか。

 私は怖くなって、すぐに目を逸らしました。

 間違いなく私を睨んでいました。何か悪いことでもしたのかと考えてみましたが、特に思い当たる節がありませんでした。もちろん見たことも会ったこともない、全くの知らない人物です。

 その後、すぐに降車駅に着いたので、それ以上気にもせず、電車を降りました。

 しかし、私同様に――私についてくるように、その気味の悪い人物も降りたのです。

 先程、会社から出た時のように生ぬるい空気が周りを包みました。寒くもないのに悪寒を感じました。

 田舎の駅で、駅員室にはもう人の気配がありません。駅前ロータリーも閑散としており、付近にある進学塾も不動産屋も小さな商店もシャッターを降ろしています。24時間営業のコンビニはないのです。

 他に4人ほど降車しましたが、皆各々帰るべき路地へと散っていこうとしています。

 私の家までは、ここから暗い夜道を10分程度歩く必要がありました。その間、助けを求められそうな営業している店はありません。

 ふと駅舎の横に目をやると、明かりが漏れている建物がありました。まるで夏の虫を誘い込むような古い蛍光灯が点いたトイレでした。

 あの気味の悪い人物が、明かりのない夜道まで着いてくるのではないか思うと恐怖を感じ、とりあえず目の前のトイレでやり過ごすことにしたのです。

 あの容姿から、私と性別が異なるため、トイレには入ってこないだろうと考えたのです。そして何より明かりがあることに安心感を覚えたのです。

 私はさりげなく後ろを見ると、例の人物が、不気味に立っているのが見えました。こちらを見ていたかどうかは分かりません。

 私は逃げるようにトイレに入りました。トイレの入り口に扉はなく、外から覗こうと思えば覗ける状態なので、念のため3つある個室の真ん中に入りました。

 用を足し、スマートフォンをいじっていた時です。


 コン、コンコン。


 ゆっくりとノックがされました。全身に鳥肌が立ちました。

 あいつだ。

 私は息を殺し、その場で固まります。便座に座ったまま動くに動けません。

 1分ぐらい立ったでしょうか。出口に向かって歩く音が聞こえました。


「ふぅー」

 安心からか、ため息が漏れました。しかし、その直後――


 コン、コンコン。


 またです。足音がこちらへ戻ってきた様子もないのに、またノックされました。

 手が震えているのが分かりました。震えを抑えただただじっと待ちました。

 その時、私は見てしまったのです。




 扉の開閉部分の隙間から、こちらをじっと睨む目を――。



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