人生を変えた女
精神分析学のハインツ・コフートは言う。自己は生涯で異なるタイプの3人と出会うことを求めていると。
1人目は、褒めて欲しいときに褒めてくれるような母親のような存在。2人目はこういう人になりたいと思える理想的な存在。
そして3人目は、自己の弱い部分を見せることができ、苦しいときに、共感しアドバイスをくれる存在だ。
コフートが言う3人ではないが、私は60年の長い仕事人生の中で、人生を変えた3人の刺激的な女に出会った。今日はその話をしようと思う。
まず、1人目の女との出会いはトイレだった……。いや、2人目も3人目も出会いはトイレだったことを先に述べておこう。
1人目は、シナモンの香りを漂わせた女だった。私がここで働いて15年ほどしたときに現れた新入職員だった。
市役所で働いている職員にこれほどまでに香水をつけてくる女は今までにいなかった。
私は彼女に一目惚れをしたのだ。彼女の方もトイレに来ると、決まって、私を選んでくれる。
トイレでの2人きりの時間がとても好きだった。彼女の身体はエロティックで、まさに理想的と言えるスタイルだった。
私は彼女のと短い時間を堪能した。トイレから先に出るのはいつも彼女の方だった。
彼女がトイレから去った後も、しばらくトイレはなんとも香しい匂いに包まれた。
私はその余韻までも楽しんだ。
毎日、毎日、トイレで会った。その度に彼女は妖艶なフェロモンを振りまいていく。
なんという幸せな時間なのだろうか。
しかし、そう長くは続かなかった。
彼女はある日を境に、仕事場に姿を見せなくなった。職場を辞めたのだ。
理由は知っている。
他の女子職員がトイレで話しているのを聞いたからだ。
彼女は公務員でありながら、夜の仕事もしていたようだった。
なるほど。それならば、あのシナモンの香りもあの身体つきも納得いくところがある。
他の女子職員からはよく思われていなかったようで、トイレで聞く彼女の話は、いい噂はなかった。
こうして私の淡い恋は幕を閉じた。
それからさらに20年ほどたった時、2人目の女に出会った。
彼女はコフートが言うところの母親のような存在だった。彼女は熟女だった。歳は50歳を過ぎていたと思う。
彼女もまた毎日足繁くトイレに来てくれた。ただ彼女は、私1人の相手はしなかった。みんなの相手をした。
だから私1人の女ではなかった。よく言えば「面倒見が良い」、悪く言えば「浮気性」だ。
それでも私は彼女が好きだった。好きだったが、彼女とはそういう関係にはならなかった。母と子のような関係で終わった。
彼女は病に伏した子供の身体を拭くように、丁寧に私を拭いてくれた。過去にも何度も私を拭いてくれる女はいたのだが、私に対する扱い方が違った。
過去の女たちは、まるで仕事をするかのように、事務的で、かつスピーディに私を拭く。少しぐらい汚れていても気にしなかった。
しかし彼女は、自分の緑のエプロンが汚れても気にせず、私の小さな汚れまでも綺麗に拭いてくれた。自分の子供のように扱ってくれるその姿が好きだった。
正直、みんなにも同じことをしていると思うと、良い気はしなかった。しかし私たちは4人兄弟なのだと思うと、不思議と嫌な気分はなくなった。
彼女もまたしばらくしてトイレに姿を見せなくなった。
理由は分からない。ただ、彼女が姿を見せなくなったその日から別の緑のエプロンを着た女が現れた。
新しい女は彼女のように私には接してくれなかった。
そして3人目の女は、今日、さっき会った。
久しぶりの女だった。そういえば、彼女が現れるまで1ヶ月ほど誰もここに来ていなかった。
彼女は男を連れてやってきた。彼女と男は同じ服を着ていた。白い作業服に、ヘルメットをかぶっていた。
あまり良い気がしなかった。
彼女と男は話をしていた。
「60年も建っていたら、歴史的建造物になるんじゃないですか」
「まぁな。ただ、耐震工事も金が掛かるしな。いっそ立て直した方がいいってなったみたいだな」
「ふぅん。なんか勿体ないわね」
「そうか。立て直した方が職員のためになるって。ほれみてみ、ここなんか今どき和式トイレだぞ」
「私、和式トイレ初めて見ました」
「まだ現役だったんだな。使ってみるか?」
「やだ、やめてくださいよ先輩、セクハラですよ、そういうの」
「はは。よし、ここも問題なし、と。いくぞ」
「はぁい」
彼女はトイレから出る時、一瞬だけこちらを見た。彼女がどんな人か分からない。分からないが、こちらを見る姿が、もの悲しそうに別れを告げようとしているように見えた。
それが私が最後に見た女だった。長い長い60年の仕事人生がもうすぐ終わる。
私はこれまでこのトイレで出会ったたくさんの女の中で刺激的な女を思い返していた。
シナモンの香りのする理想的な女子職員。母親のように丁寧に掃除をしてくれるトイレの清掃員。そして、別れを告げる工事業者。
私は、4人兄弟とともにそのときを待った。
彼らは何も声を発しない。
私も何も声を発しない。
和式トイレとしての働いた60年は幸せだった。
私の人生はここで終わる。
大きな音とともに、オレンジ色の爪が私を眠らせた。
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