(37) Value

 アン先輩は自分の黒いトラックレーサーを丁寧に置き、真珠色に赤い目玉がペイントされたヘルメットを脱ぎながら、大河の横に腰掛けた。

 こんな仕草までもが流麗で優雅。近くでは他社のメッセンジャーが商売道具のトラックレーサーを無造作に倒し、ヘルメットを放り出している。

 大河もさっきまでそうだった。皆がだらしなく足を放り出している広場の雰囲気に染まっていたのかもしれない。そう思って居住まいを正した。

「さっきはありがとうね。道を譲ってくれて」


 大河は口に残ったシナモンのリングをコーヒーで流し込み、答えた。

「Topressを妨害しないのはメッセンジャーとして当然のことです」

 本音としては先輩の走りを邪魔したかった。大河の憧れていたアン先輩のクールな走りとは違う、大河の望まぬホットな姿。

「陸上部の時とは違ってたでしょ?」

 大河はこの先輩には全て見透かされているんじゃないかと思った。大河の気持ちも、先輩へ抱いている身勝手な理想も。

「先輩のあんな走りを見るのは初めてです」

 アン先輩は抹茶リングの替りに選んだココアのリングを一口食べた。充分に味わうように咀嚼し、飲み下してからアイスティーを口にしている。


「私はこの島に来て自転車に乗って、初めて熱くなれたの」

 大河はシナモンのリングとコーヒーを交互に口に運びながら、アン先輩の発した言葉の意味を噛み砕いた。あの陸上部で見せた涼やかな走りは、アン先輩の望んでいたものではなかった。

「陸上より、自転車のほうが面白いですか?」

 アン先輩はココアリングを片手にくすくす笑う。大人と子供の混じりあったようなミステリアスな表情。大河は目をそらし、アン先輩の傍らに置かれたヘルメットの、赤い目玉を見た。


「陸上部は私が選んだ部活よ。後輩たちと頑張るのは最高に楽しかった。でも、あの時の私は走ってはいなかった」

 それまで大河を見ていたアン先輩は、各社のメッセンジャーが思い思いに憩っている広場、その向こうに見える海上都市と、無限に広がるかのように見える道を眺めていた。

「ここでは走っている」

 大河にはアン先輩の目が、ヘルメットに描かれた目玉のように赤く輝いたように見えた。

 

 アン先輩はきちんと揃えて伸ばした自分の脚に触れながら言った。

「大河ちゃん。私がTopressで居られる時間は、もうそんなに長くはないわ」

 非合法で高報酬な仕事を請ける者として、各社で最速のメッセンジャーに冠されるTopress、少なくとも大河が見る限り、アン先輩が遅くなったり衰えたりすることは考えられない。

 さっきもTopressとして走るアン先輩は、姿は大河の好みでは無いながら速さについては、そこそこの自信を持ち始めていた大河に格の違いを感じさせるのに充分だった。

「こんな小さいとこでも社長になるとね、やることが多くなるの。いつまでもミルに押し付けてはいられないし、もう仕事で速く走るのが面倒になっちゃった。そろそろ自由に走りたい」


 シナモンリングを平らげた大河は、もう一つのリングに手を伸ばしながら言った。

「先輩が私を引き入れたのは、そのためですか?私にTopressとして走れと」

 アン先輩は体を反らせて両手を背後の地面につき、足をバタバタさせている。身長も体型も大河より大人っぽいのに、体ばかり大きくなった子供を思わせる。陸上部で憧れの先輩だった頃には見られなかった姿。

「私はそれを望んでいるわ。大河ちゃんにはその価値があると思っている」

 大河はリングの入った紙箱に手を突っ込み、次に食べる物を選びながら言う。

「私は、私は速くないですよ。まだ速さならペペのほうが上だし、先輩くらい速い人ならミル姐さんが居る」


 アン先輩は指先で大河のヘルメットに触れながら言った。

「Topressになるのに必要なのは、速さより熱さよ」

 それならば適任のメッセンジャーが一人居たと大河は一瞬思ったが、あの赤い虎が先輩の作り上げた、自分と同じ社の看板を背負って重要な仕事を請けるというのは、あまり歓迎できるものではない。

「先輩は私の価値を見誤っています。私はそんなことが出来る人間じゃない」

 アン先輩は肩を竦めた。あんな熱い走りを自分がするなんて大河には考えられなかったが、この先輩には大河自身が知っている己の姿よりも深いところまで見ているような気がする。


 取り出したハニー味のリングを二口で食べた大河は、ぬるくなったコーヒーを飲んで立ち上がった。

「じゃあ、そろそろ私は行きます。トラックターミナルに午後便の荷物が来るので」 

 アン先輩はトラックレーサーのハンドルに装着したホルダーから外したスマホを見ながら言う。

「私は午後イチが総合庁舎の仕事だから、もう少しゆっくりしていくわ」

 そう言いながらアン先輩が放ったヘルメットを受け取った大河は、紙箱に手を突っ込んで、箱に残った最後のリングを取り出した。

「抹茶味。私が並んだ時にはまだありました」


 大河に緑色のリングを貰ったアン先輩は目を輝かせた。一口食べてこの上なく幸せそうな顔をする。

「ありがとう大河ちゃん。じゃあ取り替えっこね」 

 アン先輩は自分の紙箱から出した真っ赤なストロベリーのリングを、大河に差し出す。

 リングの選択を誤ったらしく、二つで腹一杯になった大河は、先輩が紙ナプキンに包んで出したリングを断ろうとしたが、結局受け取って片手に持ちながらトラックレーサーを押して歩く。

 食べる気になれなかったリングを、紙包みのままジャージのポケットに押し込んだ大河は、道に出てトラックレーサーを漕ぎ始めた。

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