(36) Difference
アン先輩が駆け抜けた余韻の中、大河はしばらく呆然としていた。
本気で走る先輩を追いかけようとさえ思わなかったのは、自分が仕事中だという責任感か、Topressと呼ばれる各社で最速のメッセンジャーのみが請け負う、非合法な時間報酬輸送を邪魔するのは、メッセンジャーの掟に反するという義務感か。
大河はただ、自転車道にまだ残っている気がするアン先輩の熱に圧倒されていた。
中学で陸上部だった時、いつも激することなく静かに走るアン先輩にずっと憧れていた。だから大河は陸上部時代も、バイシクルメッセンジャーをやっている現在も、熱くなることを戒めながら走り続けてきた。
当然のことながら、普段から無駄に興奮してばかりいる牛海老ロコのことなど眼中に無かったし、それは今後も変わらない。
しかし、ついさっき大河が見たTopressのアン先輩は、陸上、自転車を問わず今まで見たあらゆるランナーより熱かった。
ただ走っていれば良かった部活の頃とは違い、自分の力で学資と生活費を稼ぐメッセンジャーカンパニー社長として、責任や雑務を負い、最近では大河の指導もしていたアン先輩は、やる事が多くなっても走りは衰えるどころか更に磨かれていた。
陸上と自転車。競技は違っていても、稼動する筋肉の質と、それが産む力が以前の記憶より増していることくらいはわかる。
アン先輩は速くなっていた。それは大河にとって喜ばしいものでは無かった。クールだった先輩がホットになった。大河の憧れていた先輩とは違った姿になってしまった。
理由は幾らでも考えられる。アン先輩は大河と同じく親に生活を頼れない境遇だということは聞いている。生活のため、仕事のためなら、先輩があのTopressとかいう汗臭い走りをさせられるのもやむをえない事だろう。
もしそうだったとしたら。仕事は仕事と割り切って、メッセンジャーをしている時間だけは先輩への憧れに蓋をするしか無い。
実際のところ、大河が蓋をしていたのは、違う考えだった。
もしもアン先輩が、自ら望んであんな走りをしているとしたら。
自分の負っている仕事を機械的に片付けた大河は、午前中の仕事を切り上げて昼食に向かった。
メッセンジャーのために作られたような、広い芝生の敷地を持つドーナツショップには既に多くのメッセンジャーが居た。
何人かの同業者は既に自転車道や貨物ターミナル、あるいは夜の定時制高校で何度か顔を突き合わせた知り合い。大河の被っているヘルメットを見たメッセンジャーが、「ようトラちゃん」「今日は赤い虎と一緒じゃないの?」と話しかけてくる。
メッセンジャーには無償でリングを提供する木造の小さな店舗で、幾つかのリングとコーヒーを選び、支払い替りに自分の輸送業従事者証明書を見せた大河は、店を出て片手にリングの紙箱を持ち、片手で自分の青いトラックレーサーを押しながら歩いた。他社のメッセンジャーからの一緒に食べないかと言う誘いを断りつつ、芝生広場の空いているスペースを見つけてトラックレーサーを倒し、その横に座る。
スタンドの無いトラックレーサーは皆が横倒しにしていて、色とりどりのトラックレーサーと、個々のメッセンジャーの好みに合わせてペイントされたヘルメットは、この海上都市の人工的な緑地に咲いた花のように見える。
そんな花畑の中でリングとドリンクのランチタイムを過ごしている、ほとんどを高校生女子が占めているメッセンジャー達はというと、花というよりその蜜を吸う羽虫か何かだろう。
微かに海風の香る芝生の広場で、リングとコーヒーを交互に口に運んでいた大河の横にもう一台のトラックレーサーが倒された。
「抹茶味が品切れだったわ」
黒いトラックレーサーと共にやってきたのは、アン先輩。
「隣?いいかしら?」
大河はシナモンのリングを口にくわえたまま頷いた。
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