(35) Topress

 佐山大河は、今日も海上都市で自転車を漕いでいた。

 ペダルに空回りの機能が無いため、踏み方で速度をコントロールできるトラックレーサーで、速くも遅くも無いスピードを心がけつつ、メッセンジャーバッグで背負った荷物を客先に送り届けるべく走っていた。

 お嬢さま学園と呼ばれていた中学を卒業し、何もかも失ってこの島に来た時は、自分が肉体労働をしながら学校に通うなんて無理だと思っていたが、いざやってみると陸上部で中距離エースだった大河は、メッセンジャーとしての暮らしにあっさりと馴染んだ。

 自分に出来る範囲の仕事を請け、無理のないペースで走る。それだけのことでこの仕事はちょろいとさえ思えてくる。

 

 本土ではほとんど見かけない、この島特有の自転車道を走っていた大河の喉元から声が聞こえてきた。メッセンジャー必携装備のトランシーバー。ただ趣味で自転車を乗り回している人とは違う、プロのメッセンジャーの外見的な特徴の一つ。

 国内外を問わず、バイシクルメッセンジャーは仕事の依頼や他のメッセンジャーに荷物をリレーする時など、必要な連絡の多くを、この古臭い通信デバイスで行っていて、スマホやタブレットは補助的に使われているに過ぎない。

 メッセンジャーバッグのストラップで首のあたりに固定する、シンプルにして確実なハンズフリーの通信装置が伝えてきたのは、たった一言。

 Topress

 この島におけるメッセンジャーが交わす隠語の一つ。大河はアン先輩から、その言葉が何を意味するのを火は気的優先度の高い覚え事として教わった。大河はそれに従い、自転車二台が余裕で追い抜きや並走の出来る広い自転車道で、トラックレーサーを左に寄せた。


 元々このTopressという言葉は、報道関係へと送られる荷物を表わすTo pressという言葉から来ているという。

 本土でこの島のバイシクルメッセンジャーに近い仕事をしているバイク便の中でも、荷物の緊急性が最も高いのは報道の用途。

 かつて事件現場で撮影された写真や映像、書かれた記事がバイク便によってテレビ局まで運ばれていた頃、各通信社はそのために専属のライダーを雇用していた。

 プレスライダーと呼ばれる報道関係のバイク便ライダーは都市部において最も速い奴らと言われ、フロントフェンダーに各報道社の旗を立てたライダーが走っている時には、多くの一般ライダーは道を譲ったという。

 その後デジタルによるリアルタイムでのデータ通信が可能になったことで、かつて都会の道で最速を競っていたプレスライダーのほとんどが姿を消した。


 存在は無くなっても言葉は形を変えて残り、このTopressという言葉はメッセンジャーの間では、特別な輸送を指す言葉になっている。それはこの島のメッセンジャーを管轄する組織では表向き禁じられている、時間報酬による輸送。

 メッセンジャーに仕事を依頼する各企業や個人が、事故や違反を誘発するような仕事を要求することは禁止されている。それでも少しでも早く届けなくてはならない荷物というのはどうしても出てくる。

 そんな裏の需要から生まれたのが、届けた時間によって運賃を計算し、早く届ければ届けるほど高額の報酬を得られる特殊な依頼。

 Topressのオーダーを受けるのは、この島に幾つもあるメッセンジャーカンパニー各社で最も速いメッセンジャーで、どの社にも最速の座に君臨し高額の仕事を請ける権限を有するTopressが居る。

 

 無理をして稼ぐことに興味の無い大河は、Topressの仕事にも、自分がそのTopressになることにも興味は無かったが、もうすぐ後ろからやってくるであろうどこかのメッセンジャーカンパニーの速い奴に興味はあった。

 トランシーバーでTopressの接近を知らせる通信があって間もなく、後方から風切り音が近づいてくる。聴覚と同時に感じた背筋の産毛が逆立つような気持ちは、陸上競技をしていた時に何度も味わった。速い奴が来る時の迫力のようなもの。

 あっという間に接近してきたTopressが大河の隣を追い抜いていく寸前に、それが誰かをわかったのは、背後から伝わる感触が、大河が何度か感じたことのあるものだったから。

 黒いトラックレーサーのサドルから尻を持ち上げ、激しいダンシングで走り去っていったのは、大河の所属するメッセンジャーカンパニーの社長で、大河が陸上部時代から憧れていた、亥城アンだった。

 周りの陸上部員が汗臭く鼻息荒く走る中で、いつも優雅さを失わなかったアン先輩は、獣のように熱く走っていた。

 

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