(34) Cool

 佐山大河は新入りの白無地ヘルメットを卒業し、名実ともに一人前のバイシクル・メッセンジャーになった。

 ヘルメットと虎の名を賭けて勝負したロコとのレースで、自分の鈍った体が陸上部に居た頃に戻りつつあるることも確かめた。

 少なくとも事務所のホワイトボードに書き出される各メッセンジャーに割り振られた依頼案件を見る限り、大河のこなしている仕事の数は、他の四人と比べても遜色無い。

 大河がアン先輩のメッセンジャーカンパニーに加わろうと決めた時、脚力や体力よりも心配だった接客や伝票の取り扱いも、タブレットで簡略化されているためすぐに覚えることが出来た。

 接客についてはメッセンジャーに急ぎの荷物を依頼する客は、迅速な仕事を要求することはあっても、宅配便の営業ドライバーのような愛想のいい接客など誰も期待していない。


 大河はこの島でメッセンジャーを始めて数日で、細々とした覚え事とは異なる仕事全体の進め方というものがわかってきた。

 冷たく走る。大河にとってそれが最善の方法だった。 

 トラックレーサーと呼ばれる競技規格の自転車を、その構造や性能に相応の速度でブっ飛ばす仕事で、熱くなることは早い疲労を招き、事故や注意散漫を呼び寄せる。 

 実際に大河は、この数日で事故の現場を何度か見たことがある。渋滞気味の車の間を縫って走るメッセンジャー。出会いがしらの衝突や接触はよく起きている。

 メッセンジャーの乗るトラックレーサーにタイヤをゴムで挟むハンドブレーキは無い。ペダルとチェーン、そして己の脚力で制動する鋼のブレーキのみ。


 大河も最初はこの本土では禁じられたブレーキの無い自転車に戸惑ったが、乗っているうちにスピードコントロールに関しては普通の自転車より優れていることを知った。

 変速装置が存在せず、人の走るアクションに近い感覚で走れるトラックレーサー。人の足にもブレーキは無い。トラックレーサーと同じように脚を踏ん張って止まる。

 減速ではなく緊急停止の時には、前後輪を止めるハンドブレーキのほうが製動力は強いが、この島のメッセンジャーの多くは、そん時はぶつけるか倒すかして止めたほうが早いと割り切っている。

 強く止めることの出来るハンドブレーキは、その代償としてハンドルを握る指を握力と一緒に何本か持って行く。止まれないトラックレーサーはハンドルをしっかり握りながら転ぶことが出来る。

 そのほうが自分自身の身を守れると考えているメッセンジャー達は、倒して壊す自転車、あるいはぶつける相手の被害についてはさほど深く考えない。


 大河はそんなのメッセンジャーの中で生きつつ、染まることは無いようにしようと思った。

 この高性能にして低価格で、メンテナンスも簡便、そしてとても危うい自転車に乗って仕事をするならば、常に冷静に他の自転車や車、あるいは歩行者の動きを見なくてはいけない。

 相手の行動を予測する、疑わしき時は行かない、必要以上の力を発揮しない、それを守っていれば、大事な己の身を守りつつ、勤労学生としての生活を安穏なまま過ごせる。

 仕事の歩合で入るメッセンジャーの給料。既に大河は学費と生活費に足るくらい稼いでいるし、社内でも仕事の量や走行距離がビリになることはそうそう無い。


 このまま波風を立てぬような暮らしを続けていれば、一度は諦めた高卒というライセンスを得て、この島を出ることが出来るだろう。

 大河はハンドルから離した手をジャージの尻ポケットに突っ込み、補給食を取り出した。

 包装のビニールを歯で剥いて口に頬張ったのは、丸くて穴の開いた甘い菓子。

 この島のメッセンジャーがリングと呼んでよく食べている、クリスピークリームドーナツ社によってメッセンジャーに無償提供されているドーナツ。

 最初は甘さと脂っこさに、そう何個も食べられなかった大河も、メッセンジャーの仕事で体力を使っているうちに、自然と昼食や補給食、あるいは夕食後のデザートにリングの味を求めるようになった。

 相撲取りが角界に馴染んできたことを、チャンコの味が染みてきたと言うらしいが、大河の体にも、リングの味が染みこみつつあった。


 ドーナツを食べ、血糖値不足防止のエネルギー補給を終えた大河は、手を汚さず食べられる構造の包装ビニールをポケットに押し込み、トラックレーサーを漕ぎ出した。

 他社のメッセンジャーが大河を追い抜いて行った。行き先はきっと、あと数分後に大手通販会社のコンテナが届くヤードだろう。大河も先ほどトランシーバーで飛び込みの仕事を受け、そこへ向かっている。

 コンテナから早いもの勝ちで荷物を取っては届ける配送の仕事。到着が早ければ単価の高い仕事を取れる。それでも大河は少々の差額のために無駄に飛ばすことはしない。

 コンテナ一杯に届く荷物はそうそう無くならないし、余り物でも落ち着いて数をこなせば必要充分な稼ぎになる。仕事を焦って無駄に疲れるのも、事故を起こすのも馬鹿げたこと。

 大河は自分の筋肉を冷たく保つことを意識しつつ、トラックレーサーのペダルを漕いだ。

 補給のためリングを食べたのが少し早すぎたらしく、血中のカロリーが大河の腿で余熱を発していた。

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