(33) Paint

 真夜中のコンテナヤードで行われた大河とロコのレースは終わり、HotRingsの五人は寮のある事務所ビルまで帰った。

 ロコは帰路の最中ずっと文句を言っていた。どんな都合のいい記憶力をしているのか、試合では負けと引き分けの中間くらいだったが勝負ではわたしが勝っていた、とか、ゴールタイムより一周単位で最速タイムを競うファステストラップの勝負ならわたしが上だった、とか。

 大河は正直なところ早く帰って寝たかった。メッセンジャーの仕事と定時制の授業を両立するここ数日の生活で、すっかり早寝になっている。


 メッセンジャーの業務が禁じられている日没後にトラックレーサーを走らせていると、普段は流通に欠陥のある海上都市に必須の存在ゆえ見逃さざるを得ない憂さを晴らすように、警察や民間警備員が因縁をつけてくるというので、車道端の自転車道を一列でゆっくり流す。

 烏丸ミルが先導してペースを作り、妹のペペがその後ろにつく。ロコはさっき大河に負けた腹いせか、帰路では大河の先を走りたがって三番目に割り込んだ。

 大河は最後尾を走るアン先輩の前。先輩は最初のうちは適度に距離を空け、さっきまでの全力走行とは違う大河のゆっくりした走りを観察していた。

 陸上部時代もそうだったことを大河は思い出す。アン先輩は後輩の走りを見る時。試合やタイムアタックの時の全力走行よりも、練習後のクールダウンや、倉庫に機材を取りに行く時のちょっとした走りをよく見ていた。そういう時のほうが、人によって異なる骨格や筋肉が作る、その人固有の走り方がよくわかるらしい。


 アン先輩がトラックレーサーのスピードを上げ、大河の横につける。

「大河ちゃんは綺麗に走るわね」

 先輩に褒められたことで大河の顔が赤らむ。それだけでこの無駄なレースを引き受けた価値があった。

「ウォーターボトルのトラップ。あれを使わなかったのが大河ちゃんのいいところよ」

 大河は白いヘルメットのバイザーで顔を隠すように俯いた。ボトルを落としてロコに踏ませようとした大河の罠は先輩にバレていた。

「私ならトラップは必ず二種類以上準備する。一つしか使えない時には、そのトラップは使わず捨てる。使えばどうしてもそのトラップだけに依存した走りになるわ。頭ではトラップに失敗した時の備えをしている積もりでも、実際に失敗すると必ず混乱する」

 

 大河はこのままトラックレーサーを転回させて逃げたい気分になった。相手に罠を仕掛けたことについては、正直なところさほど恥じてはいなかったが、それが先輩の目から見たら未熟な生兵法だったということは、まだまだ自分にとって、アン先輩は追いつくことも敵わぬ遠い存在。雑魚を一人叩きのめしたぐらいで調子に乗っていた。

「わたしはまだまだ遅いです」

 アン先輩は大河の白いヘルメットを叩きながら言った。

「速くなるわよ。大河ちゃんはきっと、この島の虎になれる」

 

 三十分ほどで事務所に着き、各々のトラックレーサーを一階事務所内にあるスタンドに固定した。

 タクシーやバス、あるいは自転車競技用のロードレーサーには必須だという点検の類は無い。十cmほど持ち上げて床に落とし、タイヤの空気圧と各部の緩みをチェックするだけ。

 定期的なメンテナンスの必要なところの極端の少ないトラックレーサー。もし仕事中に壊れてもその場の修理か他メッセンジャーへの荷物の引き継ぎで何とかなるし、何より乗ってる連中が学校との両立で、こまめな整備などしていられない奴らばかり。

 大河も皆に習い、自分の青いトラックレーサーを落としてから、ただ引っ掛けてブラ下げるだけのスタンドに架ける。


 陸上競技をやっていた時の大河は、使っているシューズやウェアなどの道具にもう少し気を使っていた。ここで履いているのはどこかの高校で廃棄された体育館履きとジャージ。この島のメッセンジャー業務を統括する組織と廃棄業者との繋がりで、一山幾らの価格で流れてくるもので、履き潰しても事務所に替えが幾らでも積まれている。乗っているトラックレーサーもそれに似た経緯で競輪関連の団体からこの島に買い上げられ、メッセンジャーのみに安価で譲渡されている。

 

 事務所に帰ってきた大河は、レースの商品だという新品のヘルメットをさっさと受け取り、早く部屋に戻りたい気分だったが、烏丸ミルがコーヒーを淹れているので、その匂いに釣られ事務所に残った。

 ペペは事務所の隅でハーモニカを吹いていた。毎日吹くことにしていると大河は姉のミルから聞いたことがあって、よく寮で寝ている時に隣室から聞こえる、意外と達者なハーモニカの音色を就寝のBGMにしていた。

 曲調は彼女の陰気さを盛り足すような歌が多い。夕べ吹いていたのはダミアの暗い日曜日。今はロコが負けたのがよほどいい気味らしく、普段より幾らか明るい、どこかの国の行進曲を吹いている。


 アン先輩が、メッセンジャーには無料で提供されるドーナツを冷蔵庫から取り出す。貰える個数には制限があるが、店に行くタイミングによってはそれ以上の数を貰って持ち帰れるので、余っていることが多い。

「リング、貰います」

 大河はアン先輩が紙皿に乗せたプレーンドーナツを一つ取る。  

「島の外でドーナツのことをリングって言うなよ。メッセンジャーだってバレる」

 ロコがそう言いながらラズベリーのドーナツを頬張っている。大河はなんだか兵隊上がりか刑務所帰りみたいだと思った。世間の目というのはそんなもんだろう。

 

 五人で過ごす夜のコーヒーとドーナツの時間、その中で大河のものとなる、青と黒の下地に金色の虎がペイントされたヘルメットが、ペイントしたミルによって手渡された。さっき見た時は大阪のオバちゃんみたいに悪趣味だと思っていた大河も、改めて見てみるとそれほど見栄え悪くは無いように思える。

 何より新人の白無地ヘルメットを卒業し、すぐにストラップの緩む中古ヘルメットから新品になったのは気分がいい。

 大河がヘルメットを被り、ストラップを留めると、アン先輩が手を叩いて「よく似合うわ!」と言った。


 皆のやりとりを見ていたロコは何とも悔しそうな顔をしていたが、自分の黒無地ヘルメットを掴み、事務所隅のオフィスデスクからマジックペンを取り出した。

 ゼブラが屋外での特殊用途のために発売している、市販の油性ペンで最も強靭な文字を描くマッキープロの赤を手に取ったロコは、そのまま自分のヘルメットにペンで何かを描きはじめる。

 夜中のコーヒーで酔ったような感じのロコが三分ほどで描いたものを、インクの匂いとともに大河に押し付ける。

 

 紅い虎

 大河がそう思ったのはロコに対するお情けというか勝者の余裕のようなもので、描かれた動物は、およそこの世のものとは思えない。

 アン先輩はロコのヘルメットに描かれた珍獣を見て大笑いしている。ペペも珍しく笑っている。ミルは自分が一日かけてペイントした大河の金色の虎と、ロコが三分で描いた赤い虎を見比べて唸っている。

 皆の笑い声も気にせず、紅い虎のヘルメットを被ったロコは、大河を指差して言った。

「今日からわたしが、この島の虎になる!あんたはニセ虎だ!」

 大河は「ふぅん」とだけ言ってリングをもう一つ食べた。ペペは再びハーモニカを吹き始める。ミルとアン先輩はコーヒーを飲みながらお喋りをしていて、ロコの話をあまり聞いていない様子。

 大河のヘルメットに頂いた虎とは異なる、手書きの紅い虎。直線的なラインで構成された、一刀彫りの仏像を思わせる姿は、ロコの無駄に熱く尖った性格をよく表わしていた。 

「ヘルメットとしては私のほうが上だ」

 大河はそれだけ言って、自分のヘルメットに付いた新品のバックルとストラップに触れた。

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