(32) Strong
コンテナヤードを三週するレースの最後。
もうじきゴールが見えるであろう長いストレートで、大河は背後から迫るロコに気付いた。
瞬発力ではいい勝負をするが、持久力に乏しいロコ。レースマネジメントも何も無い前半の無駄な全力走行で、とっくにスタミナを使い尽くしていたと思っていた。
ロコは目を血走らせ、口を大きく開けながら大河に張り付いている。迫力だけは今にも大河を押しのけ、追い抜きそうな勢い。
大河はアン先輩から簡単な説明を受け、それから自分で幾つか調べた陸上競技と自転車の違いというものを忘れていた。
先行の不利と後追いの優位。陸上競技でも他のランナーを風よけにすることはあるが、その数倍の速さで走る自転車では、空気抵抗の有無は競技者同士の実力差を覆し、レースの展開を変えるほどの差異となる。
大河に追い抜かれたロコは、そのまま必死で大河のすぐ後ろに車体を付けていた。。明日も仕事に使わなくてはいけない筋肉への負担や、女子高生にとって大事な意味を持つ全力漕ぎのブサイクな顔について、まったく考えていないといった感じ。今、目の前の相手に勝つこと以外考えていない顔。それ以上複雑なことを考えられるほど賢そうには見えない。
ロコのトラックレーサーの前輪が時々大河のマシンの後輪に触れる。小器用なテクニックではなく、実力で大河を弾き飛ばし、追い抜く積もりだということがわかった。
二つのタイヤが擦れ合う。先輩に選んで貰った大事な商売道具が傷つくことに腹が立った大河は、肩の後ろに居るロコではなく、前方の道路端を見た。
大河はここまでの接戦は予想していなかった。それでも急な身体や自転車のトラブルに襲われても敗北せずに済むような保険だけはかけていた。
道の右端に捨てられたドリンクボトル。大河が二週目でロコに見られることなく、中身入りのまま落としたポリエチレン製のボトルは、大河が思った通り照明の狭間が作る暗闇にうまく隠れつつ、路面を水で濡らしていた。
大河はペダルを漕ぐ力を調整し、自分に有利な走路を選んでいるかのように車体を少し左に寄せた。このまま右を開け、大河が持久力切れを装って減速すれば、走る相手しか見ていないロコはまんまとボトルが落ちている所に車体を突っ込ませるだろう。
ロコのトラックレーサーのタイヤが濡れたコンクリートに乗った頃合に横から肩か肘でプッシュしてやれば、ロコは間違いなく転倒する。ボトルでも踏めばそれすら必要ない。
大河は息を吸い。常に冷静に、後ろの馬鹿のように熱くなることなく走っていられたからこそ準備出来たトラップへとロコを誘導すべく動き始めた。
ロコが近かった距離を更に詰めてくる。大河のライバルを自称するだけあって筋力だけは立派。大河の目論み通りロコは車体を右に振り、大河を追い抜こうとした。
大河はロコのトラックレーサーの前輪が自分のそれの後輪と重なったあたりでサドルから尻を持ち上げる。速度を上げながら車体をロコの居る右へと寄せた。
タイヤ同士でなくフレームとボルトが当たって火花を散らす。ロコは恐怖を感じたらしく、大河の横につけていたトラックレーサーを後方に戻す。大河の仕掛けたウォーターボトルのトラップが、誰のタイヤにも踏まれることなく視界の横を通り過ぎる。
大河は持ち上げた尻を左右にダンシングさせながらトラックレーサーを漕ぐ。ロコはもう一度大河に追い抜きをかけるべく近づいてくる。大河の背にロコの息がかかった。
「佐山大河。おめぇ遅くなったな。弱くなったな」
大河は首筋の産毛が逆立った気がした。きっとロコの口から出た不愉快な言葉じゃなく、無駄に熱い息のせいだろうと思いつつ、フェンスの外を見た。
コンテナヤードと鉄条網一つで隔てられた市街地には、定時制高校ポラリス学園の生徒とは違う、普通の時間に普通の授業を受ける女子高生らしき一団が居た。
学費と生活費を稼ぐバイトになんて縁遠そうな細い体に、運動の習慣の無い人間特有の締りの悪い腿。フェンス一枚向こうでは決闘が行われているとも知らず、友達とアイスクリームを食べながらふらふらと歩いている。
「遅く弱く、なれるもんならなりたいわよ。でもどうやら私は、まだ弱くなることが許されない」
大河は全身を躍動させ、トラックレーサーのペダルを漕いだ。青いトラックレーサーがカタパルトで打ち出されたように加速する。ロコは大河のスピードについていくべく、再び風の抵抗を受けぬまま追い抜きの機会を待てる大河の背後についた。
「牛海老ロコ、それで勝てると思ってるのなら、あんたはハイハイからやり直せ」
全身の筋肉に回った血液が沸騰の泡を立てるのが感じられた。大河は体を左右に振り、全身から汗を吹き出させ、ついでにかなり不細工な顔になった大河は、そのまま青いトラックレーサーと共にゴールラインに飛び込んだ。
ロコが一拍遅れてゴールする前に、大河は自分のライバルを自称し、頭の悪さは予想通りながら速さに関しては意外な善戦を見せたロコに、一応のエールを送った。
「雑魚が」
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