(31) Tiny

 ロコの鋭い発進加速は、大河にとって予想通りと予想外が混じりあったものだった。

 陸上でも自転車でも有利とはいえない一四〇cm少々の身長をうまく使い、ハンドル下部をしっかり持った両手を固定源に全身をしならせるようにしてペダルを踏み下ろしている。

 陸上部時代から自分のライバルだったというロコのことを大河は正直なところ、あまり覚えていない。せいぜい陸上の大会でやたら騒がしいチビが居たという朧な記憶があるくらい。

 

 その小さい選手はいつも、スタートの合図と共に真っ先に飛び出し、そして中間地点に達する頃には大河を含めクレバーなマネジメントをしていた生徒に追い抜かれていた。

 小さな体にはあまり溜め込むことの出来ないスタミナを、中距離コースを走りきる前に使いきり、ゴールラインに達する頃にはフルマラソン並みのペースになっていた選手を見ながら、世の中にはあんなバカが居たのかと思ったことは覚えている。

 それから一年弱。ロコはその欠点を意識し多少なりとも修正していると思っていたが、大河が見る限り更に頭の悪い走りになっていた。

 

 大河は先行するロコに食い下がることなく、筋力より体重を主に使うように意識しながらトラックレーサーのペダルを踏み下ろす。

 焦らず、猛らず、クールに。大河はアン先輩に自分の走りを見せられることを幸運に思っていた。横目でチラっとスタートライン横に立つ先輩を見た。アン先輩は他社のメッセンジャーとお喋りしていた。

 見るまでもないというのは、一応の信頼を得ているものと解釈し、前方を見据えた大河は、体重で漕いでいたペダルに筋力を少しずつ注ぎ込んでいった。


 既にロコとはかなり差をつけられ、コンテナヤードの暗い照明の下で、遠くに赤いテールランプが見える。大河は尻を持ち上げ、全身の筋肉を意識しつつトラックレーサーを加速させる。

 陸上部、それからメッセンジャーを初めてからのロコを見て、無駄な力配分以外に気付いたことがある。レース前のレッキ走行でも本番でも全力で漕ぐ牛海老ロコを、大河が恐れていない理由。

「あんたは道を見ていない」

 コンテナヤードを一周する不規則な長方形の周回コース。最初のコーナーに突っ込んでいったロコのテールランプが、真横に流れた。


 敷地全体がコンクリート舗装されたコンテナヤード。たった今ロコが達した曲がり角には、重機による負荷で割れたコンクリートをいい加減に補修した痕があった。

 ロコは継ぎ目に塗られたコールタールに細いタイヤを取られ、トラックレーサーを横滑りさせる。

 力技で何とか転倒を避けたロコに、大河は難なく追いついた。コーナーも補修跡の無い外周ギリギリのコースを、フェンスに体を擦りつけるようにして通過する。

 この危険な罠も、それを回避する安全なコーナリングラインも、ロコが自分の腿のウォ-ミングアップだけを考えてレッキ走行をした後、大河が自分の足でコースを見ながら走った時に気付いた。


 背後に迫った大河を見たロコは、叫び声を上げながら尻を持ち上げ、銀灰色のトラックレーサーを加速させる。ここからは長い直線区間。大河はサドルに尻を乗せたまま、離れていくロコを安定した速度で追った。覚えている限り陸上競技で大河がロコに負けた記憶は無いが、体のバネだけは大したもんだと思っていた。

 神様はあの小さく細い体にいいものを与えてくれたと思いながら、大河はトラックレーサーのペダルを漕ぐ。やはり長いストレートで息切れを起こしたロコが減速し始める。大河は速度を調整しコーナー直前でロコを追い抜いた。いきなり前に被せられたロコのコーナリングラインは乱れ、更に失速する。

 

 それからも大河は、ロコを先行させては追い抜くということを繰り返し、敷地を三週するレースの最終周を迎えた。

 既にロコは肩で息をしている。大河も昼間のメッセンジャー仕事では全身汗まみれだ、前方でフラつくロコを見た大河は、尻を持ち上げてスタンディングで漕ぎ始める。

 ロコは大河がスパートをかけるまでもなく、少し速度を上げれば追い抜けるくらいの速度だったが、大河はそろそろ相手の戦意を折って終わりにしたかった。


 追い抜きざまにロコが何か叫んでいるのが見える。それすらも走っている時には無駄なアクションだとしか思えなかった。口を走らせる余力があるなら足を走らせればいい。

 大河は後ろを見なかった。ロコがはるか後ろに居るのはもうわかっている。大河は速度を落とすことなくゴールラインに向かって走った。

 無駄なこととは思ったが、どうせ仕事中と違ってあとは寝るだけ。それならアン先輩に陸上部に居た頃の体に戻った自分を見てもらうのも悪くない。

 頬を伝う汗が、敷地の照明とは違う光を反射した。大河が振り向くと、ロコはすぐ後ろに居た。

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