(27) Helm

 丸一日アン先輩と共に走った大河は、意外とあっさりとメッセンジャーの仕事に馴染んだ。

 仕事とテイクアウトの夕食を終えた後に通う定時制高校にも、特に戸惑うことなく溶け込んだが、元より他の高校のようにクラスメイトや教職員とのコミュニケーションなど無く、高卒資格を得るノルマを消化する時間を寝て過ごしている奴も多い。

 バイシクルメッセンジャーと、その仕事道具であるトラックレーサーに甘い条例や暗黙の了解を以って運営されている海上都市。自治体とメッセンジャーカンパニーとの話し合いによる自主規制で、日没後のメッセンジャー業務が禁じられているので、残業の類も無い。

 仕事と学校を終え、社長のアン先輩が賃貸した雑居ビル上階の寮に戻ると、最初はビジネスホテルより狭いと思っていた部屋に安心感を覚えるようになった。


 それでも最初のうちは、島内の道順やタブレットの操作方法の復習、自分が依頼を請けている仕事の再確認などをしていたが、他のメッセンジャーがそんなことをやっていない事を知り、授業中に手早く済ませるようにした。授業の予習復習に関しては、元よりやる気は無い。

 メッセンジャーと同じ物流の仕事でトラックやバイクに乗る人たちや、自転車を競技に使うサイクリストが必ずやるという仕事道具のメンテナンスについても、トラックレーサーには定期点検が必要な部分が極めて少ない。

 大河も仕事を初めて早々にパンクに見舞われた事と、普通の自転車より太いトラックレーサー用のチェーンが切れた事があったが、パンクの時には予備チューブに替えるまでもなくパッチを貼って直し、チェーンはミッシングリンクと呼ばれる接続パーツで繋いで問題無く仕事を続けた。


 トラックレーサーでは数少ない、定期的なメンテナンスの必要となる部位であるBBと呼ばれるペダル回転軸は、微かな異音に気付いたアン先輩が給油してくれた。

 アメリカ西海岸で、高山から自転車で駆け降りるスリルに熱中するクランカーズと呼ばれる集団は、通常の実用自転車では廃車まで交換しないBBのグリスを一回で焼き切り、毎回リパックと呼ばれる給油が必要なためリパッカーとも呼ばれたが、メッセンジャーの仕事では月に一回も給油すれば充分で、ベアリングを焼きつかせても事務所には予備が幾らでも転がっている。

 競輪、周回競技用の自転車であるトラックレーサーは、大はパナソニックやブリヂストン、小は八坪も無い個人工房まで、日本各地にある指定工場で製造されていて、公営競輪で使用され、特に損傷が無くとも一定回数の出場の後に交換される中古品がこの島に流れ着いて来ているらしい。


 数日でHotRingsの一員として馴染み、仕事量についても他の四人に追いついてきた大河には、気になることがあった。

 仕事中に被るヘルメット。これも競輪用で競技規格ながら中古品だが、まだ大河のヘルメットは、この島で新人メッセンジャーを表わす白無地のまま。

 この島ではメッセンジャー支援のため安価に売られているが、本土に持っていけばそれなりの値がつくトラックレーサーの盗難を防止するため、メッセンジャーは皆ジャージの色とトラックレーサーの色を揃えていて、大河も空色ジャージに合わせたウェッジウッドブルーのトラックレーサーに乗っているが、ヘルメットは各々が異なるペイントを施している。遠目にも誰だかわかるためという理由もあるけど、ここでメッセンジャーとして働く十代女子にとっての数少ないお洒落要素でもある。


 ほんの少し前、アン先輩に拾われるまで高校進学はもちろん日々の暮らしさえ危うかった大河は、そんな幾らにもならぬものに興味無かったが、この白ヘルメットには少々の困り事がある。

 アン先輩は白いヘルメットを被っていると他のメッセンジャーが優しくしてくれると言っていたが、大河は初日にそれが間違いであることに気付いた。

 二台の自転車が余裕を持って並走出来る、この島特有の自転車道でも、他のメッセンジャーは前を新入りが走っているとよく煽ってきたり、追い越し様に自転車のツーリングレースのように肩をぶつけてきたりする。その筆頭は同じメッセンジャーカンパニーのロコという、大河のライバルを自称する女。


 メッセンジャーを初めて数日、最初は腹にきつく食い込んでいたワイヤーロックのサイズがウエストに馴染み、陸上部の中距離エースの体に戻ってきた大河も、そんな奴らを自分の脚力で黙らせるのが面倒になってきた。

 それに、この新人用の白いヘルメットは、中古品の中でも状態に関してはハズレらしく、ストラップが緩んできたりバックルが外れたり、ヘルメットを取った時に劣化したスチロールの緩衝材がポロポロと粉になって落ちてきたりする。

 アン先輩が自分に白ヘルメットを被せているのには、何か理由があるんだろうかと思いながら、何日目かの仕事を終えた大河は、HotRingsの事務所に戻り、皆と夕食の席を囲んだ。


 その日の走行距離で決まる今日の買出し当番は、烏丸姉妹の姉、ミル。

 アン先輩と共にメッセンジャーカンパニーを設立した最古参で、話を聞く限り速さについてもアン先輩に勝るとも劣らない、ヘルメットに描かれたオレンジの火食い鳥がトレードマークの金髪美人は、メッセンジャーの仕事だけでなくこのカンパニーの会計事務も引き受けることが多いので、走行距離は短くなりがち。

 テイクアウトの紙箱を持って帰ってきたミル姐さんは、買出しの礼を言う大河を見て言った。

「夕食後にお話があるの」

 何の話か、お金のことか仕事のことか。事務所で双頭の蛇が描かれたヘルメットを抱え、姉の帰りを待っていたペペが大河を見て、第一印象では陰気な、何度か顔を突き合わせていると彼女なりの親愛の表現とわかる笑顔を浮かべているのを見て、不愉快な話では無いんだろうと思い、紙箱を開けて中に詰まっていた香港風焼きそばを頬張った。


 初日には胸につかえそうだったが、メッセンジャーの仕事を始めてからは美味いと思うようになったボリュームのある夕食を終え、昼に貰ったドーナツとコーヒーで食後のデザートを楽しんでいた大河の前に、ミルは何かやたらと事務所の天井照明を反射する物を差し出した。

「やっと絵柄が決まって今日ペイントしたの。これが大河ちゃんのヘルメットよ」

 目の前に置かれたのは、真新しい自転車用ヘルメット。黒地にウェッジウッドブルーの縁取りがしてあって、ヘルメットの中心には金色の虎がペイントされていた。


 第一印象で「大阪のオバチャンかよ!」と思った大河の目は、ヘルメットのペイントより、その下に隠された部分に奪われた。

 新しいスチロール特有の揮発臭のする衝撃吸収材。艶のあるストラップ。どうやらこのヘルメットは新品に近いものらしい。もう走っていて緩むことの無いヘルメット。

 大河はミルに礼を言い、虎のヘルメットを受け取ろうとしたところで、テーブルの向かいでドーナツを食べていたもう一人のメッセンジャーが立ち上がった。

「ちょっと待て。そのヘルメットは私のだ」

 横から手を伸ばし、ヘルメットを奪い取ったのは、大河よりほんのちょっと先輩のメッセンジャーで、中学の陸上部からのライバルを自称する黒無地ヘルメットの少女、牛海老ロコだった。

 

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