(22) Sacoche

 アン先輩は今日最初の荷物を請け、送り先へと向かうべくトラックレーサーを漕いでいる。

 今日は先輩について走り、仕事の流れを覚えることになっている大河は、自転車の停め方から荷物の授受まで、目で見たことを出来るだけ覚えるべく努めた。

 運送バイトの経験なんて無い大河は最初のうち、少々の不安に駆られたが、どうやらこの仕事というのは、思ったよりも単純に出来ているようだった。

 営業ドライバーのような愛想や世間話は不要。伝票の扱いもタブレットで簡略化されていて、ただ自分たちメッセンジャーに求められる脚力というものを発揮すればいい。

 届け先の道順も、自動車に乗る人間にとっては交通渋滞の元となっている碁盤の目の道路には全て名前がついていて、建物のあるブロックで交差する二つの通りの名を記載された住所は、場所も道順も間違えようが無い。


 何よりこのトラックレーサーという自転車は、思ったより早く大河に馴染んでくれた。

 変速装置の無い自転車は己の脚力を素直に反映し、おそらく車輪の回転によって進む機械の中で、最も人間の走る動作に近い感覚で走れる。

 ハンドブレーキが無く、ペダルを逆回転方向に踏んで減速、停止するフィクスドギア構造も、慣れればブレーキのついた自転車より自由度の高いスピードコントロールが出来る。

 それを可能にするには陸上部の脚が必要で、普通の脚力の人間が乗るのは自殺行為だと思ったが、大河は荷物を受け取ったからスピードを上げたアン先輩のスピードに充分ついていける。

 それがアン先輩の全力には程遠い手加減した速度だということはわかっていたが、大河もまだ脚や身体が陸上部に居た頃に戻っていない。しかし、それもあと数日で変わるだろう。 

 脚の鈍りが取れて、今は腰に食い込んでいるワイヤーロックが先輩の言う通りウエストにちょうどいいサイズになったら、中学のフィールドトラックでそうしたように、またアン先輩と走れる。大河は両腿を交互に持ち上げ、青いトラックレーサーを漕いだ。


 大河は幹線道路の車道端にある自転車道を走りながら、一つ気付いたことがあった。

 この自転車で走っていると、自分がペダルでタイヤを回して前進しているのではなく、自分の足で地を蹴っているような感覚に襲われるが、陸上部時代にあって今の自分には無い物があった。

 水

 部活をしていた時はいつもスタートライン近くに置かれていた補給水が無い。前を走るアン先輩も水を持っている様子は窺えない。メッセンジャーというものは水を飲まないのかと思ったが、街のあちこちで見かける他のメッセンジャーは、自転車のフレームに取り付けられたホルダーに水のボトルを入れている。


 まだ最初の荷物を受け取ったばかりで、ほとんど発汗していないし、喉の渇きも感じていないが、走っていて水分補給をしないのは危険。脱水症状は自覚症状が出た時にはもう手遅れということが多い。

 大河はアン先輩が事務所を出る時に、水を持って行くのを忘れたのかと思った。トラックレーサーのペダルを漕ぎ、スピードを上げる。アン先輩に追いつき、どこかで水を買おうと言う積もりだった。

 大河のトラックレーサーの前輪がアン先輩のトラックレーサーの後輪に触れそうな位置に来た時、アン先輩は一瞬、視線を横に向けた。

 ハンドルから片手を離したアン先輩は、親指を上げる。

 次の瞬間、車道と植え込みで隔てられた歩道から一台の自転車が飛び出してきた。

 

 その自転車は大河やアン先輩の乗るトラックレーサーとは異なる、古臭い自転車だった。

 太いタイヤにワイヤーじゃなくロッドと呼ばれる金属の棒で繋がったブレーキの付いた、昔の酒屋や氷屋、あるいは兵隊がが乗っていたような実用自転車。後部の頑丈そうな荷台には大きな箱が取り付けられている

 乗っている子もデニムのホットパンツに麦わら帽子という、メッセンジャーとは異なる格好。

 箱つきの自転車に乗った麦わら帽子の少女は、アン先輩のトラックレーサーの横に並ぶ。アン先輩は腕を伸ばし、それから指を二本立てた。

 そこからの動きは、大河が目を瞠るほど無駄の無いものだった。麦わら帽子の子は走りながら後ろの箱に手を突っ込み、白いエコバッグのような手提げ袋を二つ取り出し、そのままアン先輩に渡す。

 袋を受け取ったアン先輩が軽く手を上げると、麦わら帽子の子の自転車は自転車道から歩道へと戻っていく。

 その間、アン先輩のトラックレーサーは減速することがなかった。

 

 大河の喉元からアン先輩の声が聞こえた。メッセンジャーバッグのストラップに固定されたトランシーバーが音を発している。

「お水買ったから、大河ちゃん取りにきて」

 大河がトラックレーサーのスピードを上げてアン先輩に並ぶと、アン先輩は白いエコバッグのような布製の取っ手付き袋を差し出す。ちょうどメッセンジャーバッグを背負いながらたすき掛けに出来るような作りで、中身はドリンクの詰まったボトル二つとエネルギーバーが四つ。

 サコッシュと呼ばれる、自転車競技で補給品を入れる袋を受け取った大河は、前でアン先輩が体に掛けた自分のサコッシュから取り出したボトルを、トラックレーサーのボトルホルダーに入れているので、それを真似る。

 エネルギーバーをジャージのポケットに入れて、空になったサコッシュは、丸めて畳むとハンカチほどの嵩になったので、それもポケットに詰め込んだ。


 この島では物流の多くが自転車メッセンジャーによって成り立っている。だから水や補給食も走りながら買えるのかと大河は思ったが、それなら事務所を出る前に準備したほうが面倒が無いだろう。

 トランシーバーからアン先輩の声がした。

「この荷物を片付けたら桟橋に行くわよ。トラックが事故を起こしたんだって。わたしたちの仕事が山ほどあるわ」

 アン先輩のトラックレーサーがスピードを上げる。大河はアン先輩がそんな情報をどこで仕入れたのかと思ったが、そこで気付いた。さっき麦藁帽子の子から水を買っていた時、アン先輩は並走しながら何か喋っていた。

 この街で色んなメッセンジャーを相手に商売をしていれば、それだけ早耳になるだろう。この有料の水の値段には、きっと情報料も含まれているのか。

 大河はさっきより少し遠くなったアン先輩の背を追いながら、この仕事は思ったよりも複雑な要素で出来ているのかもしれないと思った。

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