(21) Order
アン先輩はトラックレーサーから降り、スタンドの無いトラックレーサーをビルの正面入り口脇に立てかけた。
ビルの定礎があるあたりには、人間が掴まるには低すぎるステンレスの手すりが設けられていた。
それからジャージの腰に巻いたワイヤーロックを外し、トラックレーサーのフレームを手すりにロックする。
一つ一つの動きに無駄が無いが、大河に教えるようにゆっくりとした仕草。アン先輩は陸上部時代から、言葉で教えるよりも自分の背を見て学ばせるタイプだったが、自分が教える立場であることを忘れない先輩だった。当然、聞けば何でも教えてくれた。
中学の頃から変わらないアン先輩の仕草に安心した大河は、自分のトラックレーサーをアン先輩の後ろに停め、まだ大河の腰にきつく食い込むワイヤーロックを外して手すりに回し、自分の自転車を固定した。
大河がそれらの行動を終えたのを確かめるように、自分のトラックレーサーの前で何もせずに居たアン先輩は、大河がワイヤーロックの鍵をジャージのポケットに落とし込んで立ち上がると、そのままオフィスビルに入っていく。
ビルはこのしずおか学術産業都市に数多く存在する情報系企業のようだった。貸しサーバー屋か仲介屋か、何をしているのかはわからないが実体の無い物で稼いでる連中の職場。
ビルを入ってすぐに守衛の詰め所らしき物があったが、ジャージにヘルメット、メッセンジャーバッグ姿のアン先輩を引き止めるどころか敬礼をしている。
大河はビル内に居るスーツ姿の男女に気圧されたが、守衛は大河にもついでといった感じで敬礼するので、軽く頭を下げてアン先輩についていく。
アン先輩はそのまま受付に直行し、小奇麗なスーツを着た女性に向かって言う。
「HotRing」
挨拶も用件の口頭伝達も無し。いきなり社名だけを言ったアン先輩に対し、受付の女性は頭を下げながら言う。
「お待ちしていました。御社にご依頼したい荷物はこちらになります」
受付係が出したのは分厚いファイル。国家主導でペーパーレス化が進められている現代においてさえ、未だ実体としての書類はビジネスの必須となっていて、こんな電子情報を取り扱う企業でも、受付係りが操作するパソコンの乗っている机にはファイルキャビネットの引き出しが存在する。
アン先輩はメッセンジャーバッグを体の前に回し、フラップを開けた。中から巾着のような袋を取り出してファイルを収めた後、袋入りのファイルをメッセンジャーバッグに収納する。
それからバッグに収納されていたタブレットPCを受付係りに差し出した。大河も横から覗き込む。表示された画面は伝票。既に送り先は入力されている。受付係は慣れた様子でタッチペンを手に取り、タブレット画面にサインをしている。
アン先輩はタブレットを軽く一瞥した後、メッセンジャーバッグの透明な外ポケットに収め、メッセンジャーバッグを背に回す、そのまま挨拶一つせずに踵を返し歩き出した。
大河は先輩の背を追いながら、これでいいんだろうかと思った。大河が荷物を配送するメッセンジャーの仕事をさせられると聞いた時、覚えられるかどうか不安だった伝票の取り扱いが、タブレットによってだいぶ簡略化されていることはわかったが、曲りなりにも接客業をしているのに、これほどまでに無愛想で仕事が成り立つのか。
さっきまでより少し膨れたメッセンジャーバッグを背負ったアン先輩の横に小走りで擦り寄った大河は、思い切って聞いてみた。
「こんなのでいいんですか?その、ビジネスマナーとかいうのは」
ビルに入った時と同じように守衛の男性の敬礼で見送られたアン先輩はビルから外に出て、それから大河に言った。
「私たちに求められているのはそんな事じゃないから」
そう言いながらアン先輩は、ビル前に停めた黒いトラックレーサーのロックを解除して、ワイヤーロックを腰に巻いた後、跨る。
大河も自分の青いトラックレーサーに乗り、さっそく走り出したアン先輩の後ろからついていく。
最初のひと漕ぎが重いトラックレーサーをゆっくりと発進させたアン先輩が、歩道から車道端の自転車レーンに降りていき、サドルから腰を持ち上げる。
大河はスピードを上げていくアン先輩を追っかけながら考えた。あの会社がアン先輩に、この島が自分たちメッセンジャーの何に対して報酬を支払っているのか。
ぐんぐんとスピードを上げ、相変わらず渋滞気味な車を追い抜いていくアン先輩と、彼女のジャージ越しにもわかる逞しい腿を見て、大河は自身の問いに対する答えを知った。
自転車、メッセンジャーバッグ、タブレット、それから大河は自分では人並み程度の見た目だと思っている顔を平手で叩いた。きっとどれも違う。
わたしたちに求められているのは、この肉体そのもの。
大河は自分の腿が熱くなっていくのを感じた。
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