(20) Run

 トランシーバーの付いたメッセンジャーバッグを背負った大河は、アン先輩からグローブとアイウェアを受け取る。

 とはいってもスポーツ用品店よりもホームセンターに売ってそうなボツボツの滑り止めのついた軍手と保護メガネ。どちらも安っぽい。

 とりあえず先輩が着けろというのなら必要なものなんだろうと思い、軍手を嵌める。サイズはピッタリで、トラックレーサーのアルミ剥き出しのハンドルを握った時の感触も悪くない。先輩に倣ってハンドルのホルダーに装着したスマホに触れてみたが、素手とあまり変わりない感触で操作できる。

「中国ではね、戦闘機パイロットの手袋は今でもこれなのよ。アメリカ製のノーメックス製パイロットグローブよりいいみたい」

 先輩のその言葉に何の意味があるのかはわからなかったが、どうやらこれは安価にして最良のグローブらしい。それに、この島では他のいかなる交通手段より速いというトラックレーサーも、大河にとって戦闘機のようなもの。

 グローブを着けた大河がトラックレーサーに跨り、走り出そうとすると、アン先輩が自分の目元を指しながら言った。

「アイウェアも付けて。あんまりカッコよくないけど必要だから」

 大河はあまり気が進まなかった、これでも女子高生。街中でサングラスなんて恥ずかしい。これは先輩が見てる時だけ付ければいいかなと思い、目元を取り囲む濃いスモークブラックの保護メガネを付けた。安っぽいだけに軽く、装着してて違和感が無い。


 大河より一足早く準備を終えた烏丸姉妹がトラックレーサーに乗って走り出す。姉のミルは陽気で美麗な外見に似合わず、最初のひと漕ぎが重いトラックレーサーのペダルを逞しく漕いでいる。

 妹のペペは小柄な体ながら体重をうまく使い、最小の力でペダルを押し下げて前に出る。二人は亥城アンと大河を振り返って言った。

「じゃあ行ってくるわね」「行く」

 アン先輩が大河の横で「気をつけて」と声をかけるので、大河も陸上部時代を思い出し、先輩メッセンジャーの二人をアン先輩を真似た「お気をつけて」の言葉で送り出す。

 その後、牛海老ロコが初心者の大河より重そうな様子でペダルを漕ぎながら、「行ってくる」の言葉と共に事務所を出る。

 アン先輩は「行ってらっしゃい」と手を振っている。大河は声をかける替りに、走り出したはいいがフラついているロコの背を平手で叩いて押し出した。

 

 「じゃ、わたしたちも行きましょうか?」

 大河にとって待ちきれない時間がやっと始まる。自分の青いトラックレーサーに跨り、爪先をペダルに固定するトゥクリップに足を突っ込みながら、普通の自転車と少し異なる発車手順を少し不恰好にこなす。

 アン先輩は自分の黒いトラックレーサーに一挙動で乗り、無駄の無い仕草で走り出す。大河も重いペダルを踏み下ろしながらついていく。アン先輩がホルダーでハンドルに固定されたスマホの画面に触れると、アンと大河の後ろで事務所のシャッターが閉まった。

 狭く機械油の匂いのする事務所から外に出た大河の頬を、微かに潮の香りのする風が撫でた。


 今日の大河は、いつも通り仕事をこなすアン先輩の後ろからついていき、仕事を覚えることになっている。

 事務所から走り出したアン先輩は、黒いトラックレーサーを意外とゆっくりとしたペースで漕いでいた。

 大河は初心者の自分を気遣っているのかと思い、昨日トラックレーサーを受け取りに行った帰りのように本気で走って欲しいと思ったが、とりあえずアン先輩の作るスピードとペースに従う。

 自転車とメッセンジャーの仕事はまだ素人だけど、脚力に関しては違う。これでも築上部に居た時は部の中距離レギュラーの中で誰よりも速いアン先輩のすぐ後ろを走っていた。

 でも、ここで自分の力を見せようと躍起になるのは、馬鹿げているし自分に相応しくないと思った。アン先輩は遊びで走るために自分を誘ったわけじゃない。先輩が期待している仕事を粛々とこなすのが大事、そう、ずっとそうしてきたように、クールに。


 そんな考え事をしつつ、大河の体は機械的に自転車を漕ぎ、アン先輩から自転車二~三台離れた位置を守りながら走り続けた。

 このスピードなら、トラックレーサーという気難しい自転車も充分走らせることが出来る。他のメッセンジャーが自分とアン先輩の横を追い抜いていくのは少々不愉快だが、今は仕事を覚えることを優先しなくてはいけない。

 最初の仕事先がけっこう遠いらしく、無理の無い、緩慢とも言える走りを続けていると、大河の頭にあれこれと考え事が浮かぶ。やっぱりサングラスは恥ずかしい。ストラップの緩んだ中古のヘルメットが煩わしい。何よりこのスピードが気になる。

 アン先輩に追いつき、もっと速く走ってもいいですよと伝えようとした大河の目に、キラキラした物が映った。

 それまで走っていた道が別の道路に突き当たる。海沿いの道路。海面が朝陽を反射して光っている。


 眩しさに少し戸惑った大河の目に、手で右折を合図するアン先輩の姿がかろうじて見えた。目をしばたかせながら先輩の背を追って右に曲がり、海沿いの道路を走る。

 強い反射光と海風。やっぱりアン先輩がアイウェアを着けろといったのは間違いではなかった。この沼津西浦沖に浮かぶ島で自転車を走らせるなら、偏光サングラスは必要な装備。

 アン先輩が後ろを振り返る。アイウェア越しに笑ってるのが見えた。大河も笑みを返す。この島に来たこと。自転車メッセンジャーを始めたこと。何よりアン先輩と共に走る生活を選んだことは間違いじゃなかった。

 アン先輩の体が少し沈む。黒いトラックレーサーがスピードを上げた。大河もこの自分の足で地を蹴るように走れる自転車で、先輩を追って走った。あの頃、陸上部で先輩と走った幸せな時間と同じように。いや、もっと速く。

 海沿いの道路を少しの間ハイペースで走ったアン先輩が左に寄る合図をしながら減速する。大河もペダルに力をこめて速度を殺した。アン先輩のトラックレーサーは、車道の端にある自転車道から歩道に上がり、ある雑居ビルの前に滑り込んでいった。

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