(17) Breakfast

 ここしばらく経験無いくらい深い眠りの後の、爽やかといっていいくらいの目覚めだった。

 小さな窓から差し込む陽光に起こされ、ベッドから出た大河は、昨日半日着てそのままの姿で眠ってしまったジャージと厚手のシャツ、下着を脱ぎ、水のシャワーを浴びる。

 ビジネスホテルのように狭い部屋のユニットバスは、やはりビジネスホテルのように至れり尽くせりで、新しいタオルが既に置かれていた。シャンプーとコンディショナー、シャワーソープに洗顔料まである。


 まだ何の仕事もしていない自分にこれだけのことをしてくれているということは、アン先輩は私に期待をしている。そう思いながら大河は鏡を見た。あまり愛想のよくない自分の顔。

 きっと先輩が自分に求めているのは、笑顔よりこれだろう。裸の大河は視線を自分の下半身に向ける。先輩と走り続けた両腿は、少し鈍っているがまだ力を失っていない。

 シャワーを浴びた後で着る服に少し迷い、結局仕事着となる青いジャージと青く縁取りされた白無地の体育シャツを身につけていると、部屋をノックする音が聞こえた。ハイと返事をするとアン先輩の声が聞こえる。

「大河ちゃんもう起きてる?朝ご飯作ったから下まで食べに来て」

 大河がまたハイと返すと、アン先輩が大河の隣部屋のロコに同じことを言っていた。なかなか起きないらしきロコを何とかシャワーに連れてっている声が聞こえた。

 

 大河が階下の事務所に降りて行くと、昨日の夕飯を食べた時にも使った折りたたみテーブルが広げられていた。相変わらず機械油の匂いがする。

「おはようございます」

 事務所の隅にあるデスクに座り、ノートPCに向かって作業をしていたいた烏丸ミルが、振り返っておはようと言う。大河には、特に寝起きの大河にはまず表情を作れないような笑顔。真似して笑おうとしたがぎこちない感じになる。

 特に何かをしているわけでもないが、姉の隣に立っていた烏丸ペペは、陰気な顔のまま大河の近くに寄ってきて、片手を上げる挨拶をする。


 あまり気が進まなかったが、大河はペペのことも真似てみる。同じように片手を上げると、ペペは大河に近づいて背伸びをし、大河の手に自分の手を打ち合わせた。

 大河が席につくと、アン先輩がまだ眠そうな目でフラフラしているロコと共に降りてきた。大河が先輩にもおはようございますと挨拶をしたら、ロコが偉そうに「おう」と返した。

 全員が席についたところで、アン先輩が朝食を並べる。卵二つは使ってそうなオムレツに、フレンチトースト、レタス、オニオン、トマトのサラダ、カフェオレ、フルーツジュース、そして大皿のツナ。

 ビジネスホテルみたいな部屋に似合わぬ、ちょっとした高級ホテルのような豪華な朝食だと思った大河は、こんな朝食を別の場でも見たことを思い出した。自分も陸上部で走っていた頃に食べていたアスリートの朝食。


 アン先輩が事務所の隅にある、コーヒーを淹れられる程度のコンロとオーブンレンジで作った、かなりボリュームのある朝食を五人で食べ始める。

「ここはお魚が安いからね。夕方に漁港に行くと選別落ちの魚がトロ箱ひとつで百円とか」

 ミルはそう言いながら、缶詰じゃないらしきツナをレタスと共にフレンチトーストに挟んでいる。大河も真似してみたが、甘いフレンチトーストと塩味のツナの組み合わせは悪くなかった。

 アン先輩がたっぷりツナを盛って塩をかけたサラダを食べながら言う。

「今日の大河ちゃんは私について走ってもらうわ」

 大河はカフェオレを飲みながら頷く。今食べた朝食が少し腹の中で重くなる。

 甘いフレンチトーストにメイプルシロップを塗ってさらに甘くして食べていたロコが言う。

「早く仕事を覚えて、あたしの半分でも自分で稼げるようになれよ」  

 大河は少し気が楽になった。こいつに出来ることならそんなに難しくないんだろう。


 オムレツを食べようとした大河がケチャップに手を伸ばそうとすると、ペペが取ってくれた、そのまま大河のオムレツにケチャップをかってにかけ、文字を書いている。 

 タイガチャン ガンバレ

「ケチャップかけすぎだって」

 そう言いながら、大河は赤くなったプレーンオムレツを食べた。数ヶ月前に親なし進路無しになった時、もしかしてそれよりずっと前から、自分は皆とは違う、人とズレているということを感じ、そんな集団に対する違和感を心のどこかで気にしていたが、どうやらここでは自分程度の存在は、異物のうちに入らないらしい。

 そんな事を気にしていられない時間が今から始まる。

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