(12) Roco

 銀灰色のトラックレーサーに灰色のジャージ。目だけが大きい細面の顔立ちも相まってネズミ色という表現のほうが似合いそうな少女は、事務所に帰って来た大河にいきなり絡んできた。

「中学に居た三年間。あんたとわたしはあのトラックフィールドで何度と無く競い合った。忘れたとは言わせないわよ!」

 そう言われても目の前でいきり立っているネズミ色の少女は大河の記憶に無い。とりあえず思ったことを正直に言った。

「あんた誰?」

 大河の反応に、少女は地団駄を踏みながら騒ぎ立てる。着ているジャージといい全体的にちんまりとした体の造りといい、ネズミを思わせる少女は、大河を指差しながらわめきたてる。

「佐山大河!あんたはこの牛海老ロコを忘れたというの?」

 大河は困惑し、さっき言ったことを繰り返そうとしたが、そこにアン先輩が割り込んできた。

「大河ちゃん!覚えてるでしょ?春の県大会予選で大河ちゃんが一位を取った時、その、一緒のグループで走ってた、熱海のロコちゃんよ」


 大河はそんなに悪くは無いほうだと思っている自分の記憶力を総動員させた。県大会予選。確か同じグループで走ったのは、小山町や同じ御殿場市の中学から来た顔見知り。

 大河は結果よりクールにスマートに走るように心がけつつ、偶然の幸運が重なって一位を取ったけど、みんな最後まで食らいついてくる手強いライバルだった。

 熱海の生徒なんて居たかどうか、目の前のちっこいネズミみたいな子の姿を幾ら思い出そうとしても、該当する情報は脳内に存在しなかった。

 どうやら話してるとこっちまで無駄に疲れる子のようなので、大河は話す相手をアン先輩に切り替えて言った。

「覚えてないんですが」


 烏丸姉妹は騒がしいやりとりに係わる気は無い様子で、姉のミルは事務所の端のノートPCに向かってキーを打ち込んでいる。妹のペペはグリーンのジャージ姿のままパイプ椅子の上に体育座りし、電線に止まる小鳥のようにすぅすぅと眠っていた。

アン先輩は少し迷った様子ながら、大河に言った。

「ん~と、秋のインターハイで、大河ちゃん百m走に出たでしょ?そこでも一緒に走っていた子よ」

 大河にはアン先輩が口ごもった理由がわかった。大河は中学の三年間、陸上の中距離選手として順調に勝ち星を拾ってきた。


 速く走るよりアン先輩のように優雅に走ることが大事だった大河は、順位やタイムへの執着が無かったせいか、ここで負けたら人生オワリって感じの怖い顔をしている他の選手とは違い、緊張には無縁だった。、本番での勝負強さや強運を呼ぶ引きの強さもあったのかもしれない。

 そんな大河についた唯一の黒星は、レギュラー選手の故障欠番で急遽出ることになった百m走。結果は最下位だったけど、大河自身の感想は、まぁこんなもんかって感じで、それはそれで中距離ばかり走っていた自分には新鮮な経験だと思っていた。

 そこで大河の記憶が繋がった。あの時のわたしはビリじゃなくブービーだった。確か自分より遅くゴールに飛び込んだ選手、いやゴールに着くことさえ出来なかった選手が一人居た。


 大河もスタートダッシュの時点で速かった選手のことはよく覚えている。涼やかに走るのが一番カッコいいと思っていた大河も、全身全霊で走る他選手の姿と、躍動する筋肉はこれはこれで綺麗なものだとほんの少し思った。

 そんな記憶の中にすら居なかったんだから、きっとこのネズミは序盤で既に遅れていたんだろう。

 大河はドブネズミ色のジャージを着たネズミ少女の前に屈みこむ。彼女は身長百六十cmを少し超える大河より二十センチは低いから、そうしないと目線を合わせられない。

 突然顔を近づけられて少し怯んだ様子の、ロコと名乗るネズミ少女の前で、先輩と話す時より少し低い声で言った。

「思い出したわ。あんた試合中にスっ転んで尻もちついて、そのまま棄権した子ね」

 大河はこの子が走る姿を覚えていない。でも強打した尻を突き出した格好のまま担架で運ばれた無様な姿は、忘れたくとも忘れられなかった。

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