(11) Hundred
大河は尻を浮かし、トラックレーサーのペダルを漕ぎながら、どんどん遠くなっていくアン先輩の背中を追った。
今まで自転車というものに乗ったことは無くもなかったが、今日初めて乗ったトラックレーサーという乗り物は、自転車なのに自分の足で走っているような感覚で前に進むことの出来る、不思議な乗り物だった。
陸上のクラウチングスタートに近い前傾姿勢で、大河の脚力と全身の力が、変速ギアのような調整装置を介することの無いまま後輪を回し、足で漕いだ分だけ自分の体が移動する。
大河は今まで、中学時代に陸上部で鍛えた足を以ってすれば、陸上競技のトラックでそうしたように先輩について走ることが出来ると思っていたが、先輩の後姿は海沿いの道に吹く強い風で、今にも消えて無くなりそう。
大河にはわかっていた、この自らの脚力をそのままスピードに変える自転車は、陸上部を引退してから数ヶ月、進学準備や家庭の問題という言い訳で、走ることの無かった大河の足が鈍っていることを正直に伝えてくる。
心肺も本調子ではなかったらしく、早くも息の切れてきた大河の視線の先に、アン先輩の黒いジャージに包まれたヒップが見えた。追いついたと思ったが、そんなわけ無い。アン先輩は自転車を停めて待っていてくれた。
「ごめんなさい大河ちゃん。久しぶりに一緒に走れたからつい嬉しくなっちゃったの」
アン先輩の後ろに自転車を停めた大河は、肩で息をしながら足をつこうとしたが、体育館シューズを履いた足は競輪競技用のトゥクリップで固定されていて、足が抜けずそのまま自転車ごと倒れる。
ペダルから足を離さず、うまくバランスを取って停止していたアン先輩がトゥクリップを外し、トラックレーサーから飛び降りる。
大河は地面に転がったまま、この足を固定する器具は、締める時にはストラップを引っ張り、緩める時にはバックルを引けばいいことを知った。
「大丈夫?大河ちゃん?怪我してない?」
大河はアン先輩に助けられながらトラックレーサーを起こす。転倒で肘と肩を地面にぶつけたが、それよりアン先輩の前でみっともない姿を見せたことで心が痛い。
トラックレーサーに跨った大河は、平静を装いながらアン先輩に言った。
「もう少し走りませんか?」
さっきアン先輩に後れを取ったのは、ウォーミングアップが足りてなかっただけだと思い込んだ、しばらく陸上のトラックから遠ざかっていた自分の足が衰えているとは認めたくない。
アン先輩はトラックレーサーのハンドル上部にホルダーで固定されたスマホを見て、申し訳なさそうに手を合わせる。
「ごめんなさい。私たちはもう帰らなくちゃいけないの。続きは明日にしましょう」
大河は残念そうな表情で頷いたが、内心では現在の自分の脚力を直視しなくて済むことに安堵していた。この自転車に乗ると、嘘偽り無い事実が突きつけられる。
大河はアン先輩の先導で帰路についた。帰り道でも先輩はこの島とメッセンジャーの仕事について色々説明してくれる。
「この島にはね、百人近いメッセンジャーが居るの。わたしたちの走る右舷だけでも二十人は居るわ」
アン先輩の言葉を裏付けるように、何人ものメッセンジャーが大河の横を追い抜いていく。
「大河ちゃんなら、百人のメッセンジャーの中でもトップクラスの速さになれるわよ」
大河は自分の脚を見下ろす、俯いた姿勢で答えた。
「トップになると時給は上がりますか?」
アン先輩は陽気に笑いながら言った。
「時給じゃなく歩合よ。稼ぐのには速さはあんまり役に立たないみたいね」
大河がここで自転車に乗って仕事をするのは、陸上部時代のようにタイムを競うためじゃない。学費と生活費を稼ぐため。
「じゃあ、そこそこの速さでいいです」
「大河ちゃんにとって一番いいスピードで走れればいいわ」
アン先輩は陽気に笑う。それに相反するように春の陽が沈みつつあった。
大河とアン先輩のトラックレーサーは、HotRingsの事務所に到着した。大河はさっき無様に転倒した時に学習した通り、左右のトゥクリップを素早く緩めて足をペダルから抜き、自転車から降りる。
事務所の中までトラックレーサーを押して歩いた大河は、隅にあるスタンドに自分の自転車を立てた。
アン先輩の黒い自転車と、烏丸姉妹のオレンジとグリーンの自転車の隣に、さっき事務所を出た時には見かけなかった銀灰色のトラックレーサーが立てられていることに気付いた。
大河が各メッセンジャーの仕事を書き付けられたホワイトボードを見た時に気付いた、もう一人のメッセンジャーだろうかと思って振り返ると、そこに初めて見る女子が居た。
「待ちくたびれたわよ佐山大河!遂にこの不倶戴天のライバルである私と決着を付けにきたわね!」
トラックレーサーの色に合わせたグレーのジャージを着た、背の低い女子を見た大河は言った。
「誰?」
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