(10) Land

 歩道から広い自転車走行帯のある車道に降りたアン先輩は、大河を振り返りながら言う。

「速すぎたら言ってね」

 大河はトラックレーサーを漕ぎながら答える。

「もっと速くてもいいですよ」

 アン先輩はスピードを上げる。それでもだいぶ手加減していることはわかる。大河とアン先輩の横を、同業らしき自転車が追い抜いていった。

 ついさっき歩道で走らせた時は、ペダルが重くブレーキの無いトラックレーサーに少し戸惑ったけど、いざ乗ってみると、大河が今まで知る自転車とは別物の速度域で走ることが出来る。

 ペダルにはトゥクリップと言われる足を固定する金具がついていて、最初のうちはクリップの無いペダルの裏側を踏んでいたが、大河が体育館シューズを履いた足をトゥクリップに突っ込んでみると、踏むだけではなく引く力まで使えるようになり、更に速度が上がる。

 トゥクリップには爪先を締め付けるベルトがあったが、それは転んだ時に怖いのでまだ緩めたままにしておいた。

 

 大河がトラックレーサーの走らせ方と、ブレーキではなくペダルで速度を殺す減速方法を覚え始めた頃、アン先輩は話し始めた。

「この海上都市は五つのブロックに分かれているの」

 大河が知っている限り、沼津西浦にあるこの島にはポラリスという日本の住所表記にはあまり馴染まないカタカタの町名が付けられ、その後ろに付く6ケタの数字が住所を表していた。

「空から見ると船みたいな形をしているから、私たち運送や物流の仕事をしている人間は、島の北側を船首、南を船尾、西側が左舷で東側を右舷、中央をブリッジと呼んでいるわ」

 今から十数年前、この沼津西浦に人工島が造成されるより昔に、スカンジナビアと呼ばれる大型船が安置され、ホテルレストランとして営業していた事は大河も知っていた。

 元々はポラリスという船名だったという北欧の豪華客船は、後に売却され曳航中の浸水事故で和歌山県の潮岬沖に沈没し、今もそこにある。


 学術産業拠点なる埋立地が出来た現在も、沼津の人間にとって西浦の海にあるスカンジナビア号は馴染み深いものだという。

 この海上都市にポラリスの名を冠し、あちこちに船の意匠を残したのは沼津に長く住む人たちの希望だということを、大河は学校のパンフレットで読んだ。

「わたしたちHotRingsの縄張りは右舷。ここでは他にも幾つかのメッセンジャー会社が活動しているわ」

 アン先輩の言葉を裏付けるように、大河の横を何人ものメッセンジャーが走り抜けて行った。皆同じようなトラックレーサーに乗り、同じような体育ジャージにメッセンジャーバッグを掛けていた。

「大河ちゃんには明日一日。わたしについて走って仕事を覚えてもらうわ。あさってからは一人だけど、そんなに覚えることは多くないから大丈夫よ」

 そういわれてもお嬢さま育ちで、運送バイトの経験など無い大河は少し心配だった。ただ、何も知らない自分が他のメッセンジャーに負けない部分がある。


 大河はトラックレーサーを漕いで先行するアン先輩に近づく。やっぱり、この何もついていない自転車は、乗る人間の筋力をそのまま速度に転換してくれる。

「先輩。少し本気で走りませんか」

 白銀に赤い目玉がペイントされたヘルメットの下、アン先輩の目が細められる。

 この目。大河は中学の時の陸上部で、アン先輩のこの鋭い瞳に魅せられ、それは今でも変わらない。

 二台のトラックレーサーは市街を抜け、海沿いの道に出た。夕暮れの太平洋を右手に見ながら、海風の中を走る道。

 アン先輩は黒いジャージに包まれた尻を持ち上げる。次の瞬間、トラックレーサーが蹴飛ばされるように加速した。今からこの静穏な海に津波でも起こそうとしているかのような走り。

 大河は緩めたままだったトゥクリップのストラップを締めた、アン先輩に倣い、サドルから尻を浮かす。それまでの前傾姿勢から体は更に前のめりに伏せられる。

すうっと息を吸った大河は、胸に引き寄せた足でペダルを下へと蹴る。

 大河の体が、スピードに包まれた。

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