(9) Wear

 大河はこれから一緒に働く仲間になるという、烏丸姉妹に型どおりの挨拶をした。

「今日からお世話になります。佐山大河です。えーと烏丸、お姉さんと…」

 姉妹の姉、烏丸ミルは派手な赤い下地にオレンジの火の鳥が描かれた自転車用ヘルメットを外し、陽気に手を振りながら言う。

「ミルでいいわ」

 それから大河は、さっきから無言無表情の妹を見た。向こうも大河をじっと見ている。

 姉のミルが言ったペー子という名前は本名か通り名か、それより日本語が通じるのかと考え、大河が言葉に詰まっていると、ミルは妹の背をトンと突く。

 それに促されたように、ペー子はブルー地にグリーンの双頭の蛇が描かれたヘルメットを脱ぎながら口を開く。

「ペペ」

 女の子の声にしては低く濁った。機械音か何かのような声色。

 学歴社会から弾き出された定時制の学生が、法に触れるような自転車で法に触れる走りをすることで金を稼ぐ職場。まともな人間関係は望めないだろうと思った大河は、義務的な作業を早々に終わらせることにした。

「よろしくおねがいします。ミルさん、ペペさん。私は…大河でいいです」 


 アン先輩と烏丸姉妹、そして自分。これでHotRingsのメンバーは全員かと思った大河は、壁にかけられたホワイトボードを横目で見た。

 自転車で各種荷物を運ぶバイシクル・メッセンジャー。各自に入っている仕事の予定が書き出されているらしい。

 筆頭にアン、という項目が区切られていて、その横には幾つかの顧客名と時間が書き出されている。その下にはミルの名前。並んでペペと書かれた項目。

 その下に二つの区切りがあった。一番下が自分だということは、まだ仕事が入っていなくて、今日の日付と研修!という言葉だけが書かれていることでわかる。その上の項目。今、目の前に居る三人以外のメンバーが存在する。名前は走り書きの下手な漢字で、視力の悪くない大河にもここからは読めない。 

 シャッターの外を見たアン先輩が、烏丸ミルに話しかけた。

「エビちゃんはまだ?」

 ミルの替わりに、妹のペペが、さっきと同じザラついた声で答える。

「三十分前。共同の連中と走ってた」

 アン先輩はスチールの事務机に置かれたデスクトップPCを見ながら言う。

「ほんとだ、まだブリッジ回りをしてるみたいね。これは帰ってくるまでしばらくかかりそうね」

 アン先輩は振り返って大河に声をかける。

「日没まで時間はあるし、少し走りましょうか?」


 新しい環境に慣れず、少し気後れしていた大河の目に輝きが宿る。

 中学の陸上部では先輩に憧れ、ずっと走り続けてきた。この島に来て以来ずっと、つまらない手続き仕事ばかりで走れずに居た。

 また先輩と走ることが出来る。それだけで嬉しくなってくる。

 大河は自分に浮かんだ喜色の表情を隠し、平静を装いながら答えた。

「ええ。走りましょう」


 アン先輩は自転車が並べられたスタンドの横にあるロッカーに歩み寄った。ロッカーは背を向けて置かれていて、ちょうど事務所との間仕切りのような形になっている。

 大河が後ろからついていくと。ロッカーと壁の間は、狭い更衣室のようになっていた。並んでいるスチールロッカーは五つ。ネームプレートの無い一番端のロッカーを開いたアン先輩は、大きな紙包みを差し出した。

「じゃ、これに着替えて」

 受け取った大河は包みを解く。中身はどうやら自分の仕事着のようだった。いわゆるサイクルウェアといった感じではなく、体育用のジャージとシャツ。

 アン先輩も烏丸姉妹も、街で見かけたメッセンジャーも同じような服装だった。アン先輩のジャージは黒、ミルはオレンジ、ペペはグリーン。

 青い生地に黒と黄色のラインが入った、少し派手なジャージを取り出した大河は、中学のブレザー制服を脱いでロッカー内のハンガーにかける。

 先輩の前で下着姿になった大河は、陸上部時代を思い出しながら聞いた。

「これ、パンツも脱ぐんですか?」

 アン先輩は首を傾げながら答える。

「わたしははいてるけど?」 


 陸上部のウェアのようなサポーターは着けないらしい。道楽で自転車に乗る人が着けるサイクルジャージはノーパンだと聞いたが、毎日仕事で乗るとなると、着る物も違うんだろうと思い、ジャージとシャツを身につけた。

 先輩に習い、ごく普通の紺ソックスの上にロッカーの中にあった白いスニーカーを履いて紐を結ぶ。薄いゴム底の軽いスニーカー。中学の時に履いていた体育館履きだと気付く。

 着る物と履く物を身につけ、これで準備を終えた、と思っていたら、アン先輩がロッカーの最上段にあった流線型の自転車用ヘルメットを取り出し、大河の頭に被せてくれた。

 先輩は大河の顎に触れ、慎重な手つきでストラップの長さを調整している。大河は素材剥き出しといった感じの白いヘルメットを頼りなさげに叩く。

 ミルとペペは派手なペイントを施したヘルメットを被っていた。大河の気持ちに気付いたらしきアン先輩は、自分のロッカーを開けてヘルメットを取り出しながら言う。

「この島じゃ新人は白ヘルメットなの。それ被ってると皆が優しくしてくれるわよ」

 そう言いながらアン先輩が被ったヘルメットは、大河の初心者ヘルメットと同じ白系統だけど、銀に近いパールホワイト。蛍光灯の光を受けて紫色に光る白銀の下地に、赤い目玉のペイントが施されていた。

 

 大河は先輩と一緒にロッカー裏から出る。烏丸ミルは大河に駆け寄って来て、白ヘルメットをペタペタ叩きながら言う。

「研修が終わったらカッコいいペイントしてあげるから」

 ペペは不気味な目で大河のことを見ていたが、黙って拳を腰の高さで突き出し、親指を立てた。これから公道に出る大河を勇気づけてくれているらしい。

 先輩がスタンドから大河の自転車を外し、大河に向かって転がしてくる。

 ブルーのトラックレーサー。アン先輩の黒いトラックレーサーと烏丸姉妹の自転車を見て、ジャージと自転車の色を揃えていることに気付いた。

「じゃあ、行きましょう」

 黒いトラックレーサーで走り出すアン先輩を追うように、大河は自分のトラックレーサーを漕ぎ、外の世界へと走り出した。

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