(7) Law
大河は広い歩道でトラックレーサーを漕いでいるうちに、この奇妙な自転車で何とか前に進めるようになった。
ロードレーサーの高速ギアが一枚だけ付いたような重いペダルも、全身の筋肉を使えば回せないこともない。ホイールが回っている限り共に回り続けるフィクスドギアも、慣れれば回るペダルに足を乗せたまま力を入れたり抜いたり出来る。
まだ小走りに追いかけてくるアン先輩といい勝負のスピードだけど、そのうち仕事に必要なだけの速さで走らせるようになるんだろう。
そう思った大河の視線の先。広い歩道と植え込みで隔てられた車道をメッセンジャーが走っている。
同じような形だけど色違いのウェアと自転車、そしてバッグとヘルメットを身につけた二人の女の子が、抜きつ抜かれつ駆け抜けていった。
公道で非常に傍迷惑な競争をしているメッセンジャーたちを見て、口笛をひとつ吹いたアン先輩に、大河はさっきから気になっていたことを聞いた。
「ところでこの自転車、ブレーキがついていませんね」
アン先輩はブレーキレバーのついていない、アルミ剥き出しのハンドルに触れながら言う。
「競輪用の自転車だからね。ペダルに逆回転方向の力を与えれば止まるわよ」
大河は言われた通り車体を前に進め、それからペダルに足を踏ん張った。トラックレーサーは速度を落とし、停止する。
人の歩くくらいの速度しか出していないから大河にも出来た。でも、大河が今まで見たメッセンジャーたちの出しているスピードで可能なのか、大河は少し不安になる。
トラックレーサー追いついてきたアン先輩は、大河の腿をトンと叩きながら言う。
「大河ちゃんになら出来るわよ」
一瞬、大河の体に恐怖とは違う震えが走る。陸上部時代から自分の脚力を知っている先輩に期待をかけられている。それならば自分に出来ることをやろうと思った。やらなきゃ、自分は飢えて死ぬ。
「これ、違法ですよね」
アン先輩は少し渋めの笑みを浮かべながら言った。
「この島なら乗っていても平気よ」
大河は目を丸くした。彼女の知っている中学の陸上部時代のアン先輩は、法や校則を破ることを知らない人だった。
「乗っていいって条例か何かあるんですか?」
アン先輩はまた横を通り過ぎたメッセンジャーを目で追いながら答える。その自転車もブレーキがついていない。
「そんな物は無いけどね、んーと、この島じゃ色んな物流がわたしたち自転車メッセンジャー頼りなの。街でわたしたちの自転車を捕まえるおまわりさんも、署や交番に届く書類は私たちメッセンジャーが持って行っているの。非番の時に通販で頼んだ雑誌も、届けるのは私たち」
要するに共助関係の中で発生した暗黙の了解という奴かと、大河は理解した。アン先輩がそう言うならそれで問題ないんだろう。アン先輩の行動が誰か他人の作った法律と相反するならば、亥城アンは常に法より正しい判断をする。
アン先輩は大河のトラックレーサーのハンドルを持ち、ステムを軸に前輪をクルクル回しながら言う。これもハンドル回りにブレーキのレバーやワイヤーの無いトラックレーサーにしか出来ないこと。
「これを本土に乗っていっちゃダメよ。捕まっても初犯ならせいぜい注意がいいとこだけど、私たちメッセンジャーは前科持ちが多いから」
それを裏付けるように、アン先輩の背後を通り過ぎたメッセンジャーが、赤信号を突っ切ってタクシーからクラクションを浴びせられていた。
大河はこの島でしか生きられない怪獣のようなトラックレーサーのフレームを指先で撫でながら、どうやらこれから自分がやる仕事は綺麗でお上品なものではないのかもしれないと思い始めた。
どっちにせよ、親の夜逃げで全て失った身、まともな方法で人生を立て直せるとは思っていない。どんな仕事をしていようと自分は何も変わらない。いつも通りクールでクレバーなままで居ればいい。大河が憧れ続けているアン先輩のように。
先輩は大河の背を叩いて言った。
「さぁ事務所に帰るわよ。大河ちゃんの仕事着が届いてるから。それからうちの子たちに大河ちゃんを紹介しなきゃ」
アン先輩の下で働いてるという連中はどんな顔ぶれか。大河はこの無法で無謀な自転車を漕ぐたび湧いてくる不安を平静の仮面で隠しながら、先輩についていった。
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