(6) Fixed

 奇妙な自転車を受け取ったアン先輩は、こてっちゃんなる少女に深々と頭を下げた。

 大河もそれに倣い、形だけのお辞儀をする。

 とうとう最後までガムを噛む音しか発しなかったこてっちゃんは、礼に応えることすらせず事務机の引き出しを開けると、幾つか走り書きした後にゴム印を捺した紙片をアン先輩に差し出す。

 女子としては身長が高めの大河より更に上背が高く、百七十cmを少し超えるアン先輩が、身長百四十cmそこそこのこてっちゃんから紙を受け取る様は、お使いに行ってきた子供からお釣りを受け取っているようにも見える。

「いつも通り月末に振り込ませていただきます」

 もう一度丁寧に頭を下げたアン先輩が紙切れをジャージのポケットにしまう前に、横から首を伸ばした大河は内容を見る。


 請求書。無愛想を通り越し奇人めいた彼女に似合いの下手な字だが、数字くらいは読み取れる。キッチリ一万円。

 これが高いのか安いのか、大河にはわからない。自転車とはいえ競技用のレーシングカーなら信じられないほど安いが、大河の知るママチャリやロードレーサーに比べ極端に装備の少ない自転車を見て、もしかしたらゴミに金を払ったのかもしれないとも思った。

 自転車と請求書を渡したこてっちゃんは、用はもう終わりと言わんばかりにガムをオイル缶に吐き捨て、またベンディングマシンから出した新しいガムを口に放り込みながら、こちらに背を向けて何かの作業を始めた。

 大河には作業の内容はわからなかったが、手元から火花が散っているのを見て、彼女の名前通り鉄を切ったり削ったりしているように見えた。部屋の隅には、たった今アン先輩が受け取った物と同じような自転車が何台か立てかけられていた。


 大河はアン先輩と共に、こてっちゃんが作業をしている雑居ビルの一階から外に出た。

 広い歩道で、アン先輩は自転車を押しながら大河を先導するように歩く。先輩に荷物持ちをさせる居心地の悪さから、大河はアン先輩に声をかけた。

「あの、私が押します」

 立ち止まったアン先輩は、大河にプレゼントでも渡すように自転車を差し出す。

「少し乗ってみる?」

 大河は自分の知らない形の自転車に少し戸惑ったが、これから先輩の役に立つため、何より自分自身の学費と生活費を稼ぎ、明日を生き延びるため、この自転車に乗って働くことになる。ビビってはいられないと思い、頷いて自転車を手に取る。それが自転車であることが信じられないくらい軽かった。


 日本のどこでもない、海外の都市を真似て作った広い歩道。さっきからヘルメットを被ってバッグを掛け、車道をブっ飛ばすメッセンジャーらしき自転車を何度か見かけたが、歩道でも自転車はそこそこ走っている。

 普通のサラリーマンや主婦、あるいは制服姿の学生の乗るママチャリは歩道を走り、メッセンジャーは車道を走っている。この海上都市では速い自転車と普通の自転車の棲み分けが成されていた。

 大河はこの自転車に乗って、歩道と植え込みで仕切られたあっち側を走ることになる。それなら安全なこっちの歩道でで練習をしておいたほうがいいと思った。


 アン先輩がさっき大河の体に合わせて調整した時と同じように、自転車を持って支えてくれている、大河は制服スカートを気にしながら跨った。

 ペダルに足を固定するベルトと金具がついている事に気付き、これをどうするのか少し迷った。今履いているのは制服に合わせたローファー。

「そのまま踏んでいいわよ」

 大河の気持ちを見透かしたようなアン先輩の声。言う通りにペダルの金具がついている側とは逆、裏側を踏む。

 大河が自転車に乗ったのは初めてではない。家にはママチャリくらいあったし、時々買い物に使っていた。何も怖がることはないと自分に言い聞かせ、大河はペダルに力をこめた。

 アン先輩に背を押され、大河のトラックレーサーはゆっくりと動き出した。


 重い。

 漕ぎ出したペダルは大河にとって非常に重かった。

 平地の歩道なのに、急な坂を登っているのではないかというほど前進に苦労を要する。ギアを切り替えることは出来ないかと思ったが、それに類する操作装置が何も無い。下を見るとチェーンの掛かるギアは一枚だけ。

 ふらふらと蛇行しながらやっと前に進む。こんなのを使ってメッセンジャーとかいう仕事をするくらいなら、降りて歩いたほうがマシだと思った。

 アン先輩は陸上部時代に、辛い練習をしている大河をよくそうやって勇気づけたように、手をパンパン叩いて励ましてくれる。先輩の前で見苦しい様は見せられない。そう思った大河は、固くて痛そうだと思った見た目の予想よりもっと座り心地の悪いサドルから尻を浮かし、ハンドル下部を掴んでペダルを踏む腿の筋肉、それに繋がる背筋に意識を集中した。


 乗れる、と思ったのは突然だった。

 大河が覚悟を決めてペダルを漕ぐと、ペダルは重いが車体は軽い自転車は、負荷に相応の速度で前に進む。まるで自分の体内にある筋力をすべて受け止め、放出してくれるように、大河の体を前へと蹴り飛ばしてくれる。

 ずっと後ろに居るアン先輩が気になったが、振り返るとだいぶ小さくなったアン先輩は、そのまま行け、と手で合図している。

 アン先輩の事務所の場所は知っているし、そこで落ち合えばいいだろうと思い、大河はトラックレーサーを漕ぎ続けた。

 さっきはこの自転車を、一万円も払わされたゴミだと思ったけど、これは間違いなくレーシングマシン。宝石のような自転車だと思った。

 夢中で漕いでいて少し疲れた足を休ませようと、大河はペダルを漕ぐ力を緩める。次の瞬間、足を止めても回り続けるペダルに大河の足は体ごと蹴り上げられ、そのまま自転車から落っこちる。

 

 転倒した大河がめくれあがったスカートを直していると、アン先輩が追いついてきた。地面に座りこむ大河を起こし、それから自転車を起こした先輩は申し訳なさそうに言う。

「ごめんなさい大河ちゃん、先に言っとくべきだったわ。この自転車は普通の自転車と違って、ペダルを空回りさせられないのよ」

 大河は転んで打った尻をさすりながら言った。

「この自転車はゴミです」

 アン先輩が首を傾げて聞いた。不安に駆られているというより、大河の持つ可能性に興味を駆られているといった顔。

「大河ちゃんには乗れないかしら?」

 大河はアン先輩から自転車を受け取りながら言った。

「乗れないほどのゴミじゃない」

 大河はついさっき自分を叩き落したトラックレーサーに、再び跨った。

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