(5)Track Racer

 大河は目の前に押し出された、自分の商売道具になるという自転車に触れた。

 第一印象としては、カッコ悪い。

 街中やテレビ、最近ではアニメでもよく見かけるロードレーサータイプの自転車だということは分かるが、その自転車は細く貧弱で、ロードレーサーのみならず今時のスポーツ用品特有のハイテク素材な感じがしない。

 自転車を大河に渡したきり一言も口を利かない、こてっちゃんなる小柄なツナギ少女に代わり、アン先輩が説明する。

「トラックレーサー、競輪用の自転車よ」

 大河は自転車をあちこち眺めながら答える。

「ケイリンの自転車って、もっと今風のデザインなのかと思ってました。パイプも車輪も流線型で、プラスティックみたいな感じで」

 アン先輩は大河がパイプと呼んだメインフレームを撫でながら言う。

「国際ケイリンやガールズ競輪じゃカーボンフレームが使われてるけどね、これは男子競輪の車両だから」

 

 ガムを噛む音。大河はこてっちゃんがすぐ横に立っていることに気付いた。口も利かず愛想も知らない、アン先輩と正反対の少女は、目つきの悪い視線で、頭二つ分ほど背の高い大河を見上げ、サドルを叩く。

 乗れ、という意志を意味する仕草であることは大河にもわかったが、サドルは見るからに小さく固そうで、座り心地良好とはいえない外見。アン先輩がクローム・モリブデン鋼のフレームをしっかりと掴みながら言った。

「大丈夫、持っててあげるから」

 大河は制服のスカートを気にしつつ、トラックレーサーという自転車にそっと跨った、予想通りお尻が痛くなる。アン先輩の握力でしっかりと保持された自転車は、大河の体重が乗ってもビクともしない。少し安心した大河は、左右のペダルに足を乗せ、目の前の曲がりくねったハンドル上部に手を乗せた。


 体を思い切り前に傾ける姿勢。こんな物を毎日長時間乗る運送業に使うことが大河には信じられなかった。ここに来る途中で乗ったタクシーを思い出す。同じく業務で車両に乗るタクシードライバーの運転席には、確か座り心地良さそうな数珠のシートカバーが掛けられていた。

 なんとも落ち着かない気分のまま、動かない自転車に跨っていると、こてっちゃんが手を伸ばし、見た目からは想像つかぬ強い握力で大河の手を取った。そのまま大河の両手をドロップハンドルの下部にあてがう。

 ハンドルの下のほうを掴むと、さっきまでのきつい姿勢が余計に前傾する。こんな自転車に乗れば十分と経たぬうちに腰痛になりそう。そう思った大河の両肘にチョップを入れた。

 肘が曲がり、前傾を通り越して土下座に近い格好になった大河は、唐突に思い出した。自分はこの姿勢を知っている。今より少し前、アン先輩と過ごした時間の記憶。

 陸上競技のトラックコース。隣に並ぶ先輩の息遣いを感じながら、今日こそは憧れていた人と並んでゴールすることを夢見ながらスパイクで地を蹴った時のこと。


 大河の前傾は、背中をほぼ真上に向ける姿勢でピタリと安定した。それは陸上競技で何度も経験したクラウチングスタートの格好。

 アン先輩はニコニコと笑っている。こてっちゃんは少し眉を上げた。自転車の上で全身の筋肉を収縮させている大河は、この姿勢からならだれよりも速く走れる気がした。

 慣れ親しんだ格好のまま自転車に跨っていた大河の体をあちこち見ていたこてっちゃんが、背伸びして大河の肩を叩く。

 アン先輩に言われるまでもなく、降りろ、という事なんだろうと理解した大河は、自転車から飛び降りる。乗車姿勢に対して降り方はまだぎこちない。

 室内の隅に置かれた大きなオイル缶にガムを吐き捨てたこてっちゃんは、自転車の部品らしき物が大量に置かれた棚の横にある、金色のベンディングマシーンを回して、ボール状のガムを一つ取り出して口に放り込んだ。


 新しいガムを噛みながら金属製の物差しと分度器を取り出したこてっちゃんは、トラックレーサーのサドルをいじり、慎重な手つきで高さと角度を調整している。

 続いてハンドルの角度を調整したこてっちゃんが、再びサドルを叩く。大河はさっきより幾分スムーズな仕草で自転車に跨り、深く身を伏せた。走るのに最も適した姿勢を取ると、自然と手がハンドルの下部を掴む。

 相変わらず一言も喋ることなく大河の姿を見ていたこてっちゃんが無愛想な顔のまま親指を上げる。

 大河が自転車に跨る間、ずっと車体を持っていてくれたアン先輩が微笑みながら言った。

「フレームもステムもピッタリみたいね」

 今から少し前。進路に困った大河がアン先輩に相談した時、自分のところで働くことを勧めたアン先輩は、準備良く持っていたメジャーで大河の体のサイズを測っていた。

 アン先輩は「仕事で必要になるドレスをあつらえるためよ」と言っていたが、大河は今になって気付いた。これが先輩の言うドレスだということを。

 乗るのではなく着る、は昔のポルシェの宣伝文句。大河はこの鋼のドレスを着て、一度は見失った明るい未来を手に入れるため働くことになる。

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