(4) Dress

 つい先日、ほぼ一年ぶりに会った時も思ったが、大河の通っていた中学の一年先輩。陸上部で同じトラックを走ったアン先輩は変わらなかった。

 長い髪、切れ長のミステリアスな瞳。意志の強さを窺わせるアゴ。そして大河が見るたびに自分自身に欠けている女らしさを実感させられる豊満で曲線的な体。

 それが仕事着なのか、膝上で短く切ったジャージに体操シャツという格好のアン先輩は、手で押していた黒い自転車を事務所の隅まで押して行き、床に置かれたスタンドに固定してから大河に向き直った。

「道、迷わなかった?」

 弦楽器を思わせるハスキーな声。大河が陸上部で走っていた時も、この声に何度となく励まされた。

「わかりやすかったですから」

 アン先輩がスマホに送ってくれた住所は簡明直截で、添付された地図を見るまでもなく、碁盤の目に整備された街の区画に順番に付けられた数字を追うだけで事務所に着くことが出来た。


 アン先輩は大河の背後で開け放たれたドアへと歩み寄りながら言った。

「この島は道がわかりやすいからね」

 アン先輩はドアから顔を出し、軽く左右を見回してから閉める。ドアを開けたままだった大河は、自分が先輩の前で無作法なことをしてしまったと思って俯いた。

 アン先輩は特に気にしている様子もなく、大型車二台分ほどの面積のある事務所の中を歩き回りながら、喋り始めた。

「早速だけど、大河ちゃんには今日からお仕事の準備を始めて欲しいの」

 そう言うなり、大河の手を引いて歩き出すアン先輩。大河は思い出した。この先輩は同級生や後輩に厳しく当たることをしない人だけど、一本調子でマイペースなところがある。

 大河は先輩のそういうところが好きだった、少なくとも今まで大河が知っておる限り、先輩の後についていってひどい目に遭ったことは無い。たとえそれが法に触れる行為だとしても、先輩は常に法より正しい判断をする人だと思っている。


 ジャージに体操服という格好を着替えることさえせず、アン先輩さっき閉めたばかりのドアを開けて外に出た。中学制服のブレザー姿の大河を振り返って言う。

「歩いて十分くらいだから」

 それだけ言って背筋を伸ばし、さっさと歩いていくアン先輩の背を大河は追う。先輩はのんびりと歩いているようにしか見えないのに、緩慢に歩く他の歩行者を追い越していく。

 アン先輩の足でキッチリ十分。普通の人なら徒歩十五分ほどの距離にある、さっきまで居た事務所と同じような作りの雑居ビルの前で、先輩は足を止めた。


 同じくシャッター横にあるドアのインターホンを押したアン先輩は、スピーカーマイクに口を近づけ、さっきまでの大河との会話より低い声で言った。

「ホットリングス」

 アン先輩が起業した会社の名前。そこで大河は、アン先輩の仕事を手伝うといっても、何をすればいいのかをまだ聞いていないことを思い出した。

 インターホンからは応答は無く、替わりにドアロックが外れる音がする。大河はとりあえず後で聞けばいいと思いながら、ドアを開けて入っていく先輩の後ろからついていった。

 

 シャッターの内部は、広さも中身も先輩の事務所に似た作りだった。デスクとホワイトボード。違うのは部屋の端に幾つもの工作機械があること。

 部屋の中には汚れたオレンジ色の整備用ツナギを着た子が居た。ヘルメットのようにキッチリとしたおかっぱ頭で、背は百四十cmを越えるか越えないかというぐらい。先輩と大河に背を向けて何かの作業をしている。

 部屋の中に入った先輩は、ニコリともしないおかっぱのツナギ少女に声をかけた。

「こてっちゃん」

 こてっちゃんと言われた小柄なツナギ少女は振り返る。ガムを噛んでいた。目つきはすこぶる悪い。

「注文していたこの子のドレスはもう出来ているかしら」

 先輩の声にガムを噛む音だけで返事したこてっちゃんなる女の子は、部屋の隅に歩いていく、このサイズだと部屋が広く見える。

 汚れたツナギと奇妙な対称を為している、ツルンとしたおかっぱ頭の印象的なこてっちゃんが押してきたのは、一台の自転車だった。


 赤く真新しい、大河の知識ではロードレーサーと言われているタイプの自転車。大河はこんな自転車をどこかで見た記憶がある。

 大河を振り返ったアン先輩は言った。

「これが大河ちゃんのお仕事道具よ」

 まだその自転車に手を伸ばす気になれない大河は、先輩に尋ねた。

「その仕事というのは何ですか」

 ガムを噛む音が一つ聞こえるくらいの沈黙ののち、先輩は自分が大事な事を伝え忘れていたことに気付いたような顔で言った。

「バイシクル・メッセンジャーよ」

 大河は思い出した。このヘンな自転車は、ついさっきタクシーの後席からこの街を見た時に出会った、あの空飛ぶお尻の女の子たちが乗っていた自転車だった。

  

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