(3) Bicycle

 正午を少し過ぎた頃。大河が教務課で受けた入学説明は、良い意味で無味乾燥なものだった。

 様々な事情で普通の高校からドロップアウトした人間を受け入れる定時制高校ポラリス学園。

 学び舎というよりオフィスビルか大手学習塾のようなシステマチックな校舎に似合いの、サラリーマン然とした教務主任の話には、人生のやり直しとか豊かな学生生活というお題目はなく、内容はただ社会に出るためにとても重要な高卒というライセンスを効率よく取るための場所と、その授業というノルマの消化方法についての説明。

 大河が中学の時に経験した、地元商店街のお手伝い程度のアルバイトとその面接を思い出した。あれも応募者の能力や人格を選別するといった感じではなく、少しでも早く仕事に入ってもらうための具体的な打ち合わせのための物だった。

 教務主任は大河のスマホに学校説明のファイルを送信し、わからないことがあったらそれを見るようにと言って説明を終わらせた。

 大河も夕方から始まる授業の前で眠そうな顔をしているサラリーマン教師より、スマホのファイルを頼りにしたほうがいいと思い、続いて分納学費の手続きを済ます。


 夜逃げした父は手元にある現金を、債権者に取られる前に大河に渡してくれたが、それも僅かな額で、分納学費を払うと大半が消えて無くなる。

 残りの学費と生活費は自分で働いて稼がなくてはならない。アン先輩がこの学園と職場を紹介してくれなければ自分はどうなっていたことか。

 これが最後の贅沢とタクシーを使ったのは失敗だったかもしれない。その金でアン先輩に何かお土産でも買ったほうが良かったかな、そう思いながらオフィスビルの形をした学園を出た。

 

 今日から大河が受講することになる定時制の授業は夕方から始まる。大河はその前にアン先輩に会う約束をしている。そこで大河の仕事についての説明を受けることになる。

 これから世話になる先輩のところに手ぶらで行くなら、自分自身が最良の手土産になるべく最善を尽くさなくてはならない。そう思ってみたものの、先輩の紹介する仕事がどんな物になるのかはわからない。

 大河は竦みそうな足を動かし、学園から徒歩で十分ほどの場所にあるという待ち合わせ場所に向かった。

 

 碁盤の目に整備されているため間違いようの無い市街とスマホの地図に助けられ、大河が着いたのは、タクシーの後席からこの街を見た時に何度か目にした、一階が店舗になっているビルの一つだった。

 建坪は十坪ほどながらやけに背が高い七階建ての建物。この海上都市が将来的に人口も建造物も過密な街になった時を見越して建てたようなビル。

 一階シャッターの脇にある出入り口には、先輩から教わった通りの表札が出ていた。

 Hot Rings


 業務内容も連絡先も出ていない小さなプレートは、まるで必要な時にはすぐに外せる構造にしているかのように、ドア横のプレートホルダーに差し込まれていた。

 大河は少し緊張しつつ、プレートの下にあるインターホンを押す。すぐに声が聞こえてきた。

「大河ちゃんね?開いてるから入ってきて」

 中学の時の陸上部に居た時から変わらない、ずっと憧れていた先輩の声。大河はこの声を聞いただけで今まで抱いていた不安がどこかに飛んでいった気がした。

 ところで、ボタンとスピーカーしか無い古臭いインターホンなのに、何で先輩は自分が来たことを知っていたんだろう、そう思いながらドアを開けた。


 シャッターの内側は、ホワイトボードとスチールデスクのある事務所だった。不動産業をしていた父の仕事場と変わりない。違いがるとすれば、入った瞬間に鼻をつく油臭さ。

 事務所の中には、アン先輩が居た。陸上部で一緒に走っていた時。わざわざ大河のクラス御殿場まで来て、進学についての相談に乗ってくれた時と変わらぬ美麗な顔立ちと、黒く長い髪。

 先輩に駆け寄ろうとした大河は、その前にさっきから感じていた油臭さの正体に気付いた。

 大河の接近を阻むように先輩の前に置かれていたのは、一台の自転車だった。

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