(2) Stella Polaris

 学校の前で佐山大河はタクシーを降りた。

 支払いを終え、だいぶ中身が淋しくなった財布をブレザーのポケットにしまった大河は、後部トランクからキャリーケースを引っ張り出しながら、これから通うことになる校舎を見上げる。

 学校というよりオフィスビルを思わせる、十階建てはありそうな真新しいビル。大きくてご立派で、大河が行っていた小中学校のような余裕や冗長性を感じられない校舎。

 狭い緑地帯はあるが校門や校庭らしき物の見当たらないビルの入り口から中に入る。守衛室が見つかったので、中学のブレザー制服を着た大河は、キャリーケースの外ポケットから出した入学書類を見せる。

 

 この高校の入学式とオリエンテーリングは数日前に終わって、今はもう一般授業が始まっているが、大河は個人的な事情で初登校が他の生徒より数日遅れ、授業の前に教務課で個別の説明を受けることになっている。

 沼津の駅からここまで利用したタクシーで予想外の渋滞に巻き込まれつつ、一応は学校側から言われた通りの時間に着いているのに、無愛想な壮年女性の守衛は帳面をめくりながら言う。

「そんな話は聞いてないねぇ」

 大河は自分をうさんくさそうに睨む、警備会社の社員というより、大河が中学生の時に何度か親と行った欧州で見かけたバーの便所番みたいな婆さんに食ってかかった。

「もう一度教務課に確認してください」

 それから愚痴のように言い添えた。

「早く入学説明を済ませないとアン先輩との約束に遅れちゃう」


 来訪者の予定が書かれているらしき手書きのノートだけを見ていた守衛の目つきが変わる。便所番の婆さんがチップを貰った時の顔。

「アンタ亥城ちゃんのお友達かい?」

 もう守衛を当てにせず、自分で教務課に直接電話しようとしていた大河は、スマホを操作しながら答える。

「亥城アンは私の先輩です。この春から同じ職場で働くことになっています」

 さっきとは打って変わって愛想よくなった婆さんは内線電話を手に取り、校内の誰かと話している。途中でまた怖い顔になった。

「今忙しいってアンタ亥城ちゃんの身内を待たせる気かい?」

 それから電話相手の言葉を聞いていた婆さんは、「わかりゃいいんだ」とだけ言って内線電話を切る。

「亥城ちゃんにはわたしも色々世話になっててね」

 大河はニコニコ笑う守衛の婆さんを見ながら、さっきの無愛想な顔のほうがまだかろうじて女としての魅力を残しているかもしれないと思った。

 守衛の婆さんが校内の案内図を取り出し、四階にあるという教務課の場所をご丁寧に赤いサインペンで丸く囲んでから、来客用の入校証と共に差し出しながら言った。

「ようこそ、ポラリス学園へ」


 大河はつい数週間前まで、自分がこの学校に通うことになるとは思っていなかった。

 御殿場で不動産業を営む裕福な両親の間に生まれた大河は、地元ではお嬢さま学園と言われる私立の小中学校に通い、何とか優秀グループに入れる程度の成績と、陸上の中距離選手としての実績で、高校は県内の浜松市にある進学校への推薦入学がほぼ決まっていた。

 その予定図が消滅したのは、もう三月に入り、大河も同級生と共に春から始ま高校生活への準備をしていた頃。

 父親の事業失敗と両親の夜逃げ。


 大河と両親は元々会話の少ない親子関係だった。いずれも時間との戦いになる津波と夜逃げはバラバラに逃げたほうがいいという父の判断も、大河は間違っていないと思った。

 問題はそのタイミングが遅すぎたということ。

 債権を抱え新しい年度を迎えることが絶望的になったということは後で聞かされたが、当然というか大河が通うことになっていた高校の入学金は納付されていなかった。

 他校の二次募集も終わり、奨学金を受けて高校進学しようにも、それすら締め切られていた。

 十五歳で浪人になることを半ば覚悟した大河を救ってくれたのは、去年卒業した陸上部時代の先輩。亥城アン。


 大河が陸上部に入ったのは、小学校の時にアン先輩の走りに憧れたからだと思っていた。

 選手が皆揃って必死な顔になる短距離、中距離走で、アン先輩だけは試合や練習で走っている時、常に優雅さと冷静さを失わない人だった。

 他の先輩や顧問の先生に本気で走っていないと言いがかりをつけられ、それを涼しい顔で受け流すアン先輩を見た大河は、そうありたいと思い、常に感情を乱すことなく、平静で居ようと心がけていた。

 それは今も変わらない。大河の窮地を聞きつけたアン先輩が、沼津の新天地で自分と一緒に働こうと誘ってくれた時は、夜逃げし進学を台無しにした親に感謝した。

 アン先輩は働きながら分納で入学金を払えば通うことの出来る高校まで紹介してくれた。沼津西浦の海上学術都市に新設された定時制高校。ポラリス学園。

 これからこの高校では亥城アンの後輩として、高校での入学説明の後に連れていってくれるという職場では先輩の役に立つ人間にならなくてはいけない。

 大河は背筋を伸ばしながら四階までの階段を昇り。教務課へと向かった。

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