第1話 いつもの日常


 一


 宇宙船シンポシオンの朝は、グリーグの「ペール・ギュント」第一組曲第一曲「朝」によって始まる。午前七時になると、船内の全ての部屋に音楽が流れ、目覚めを促す。木星圏にあっても、乗員たちは地球のグリニッジ標準時に合わせて行動するよう、定められていた。これは管理システムのAIヘゲモニコンの判断であり、乗員に選択権はない。


 ウララはベッドの上で目を覚ますと、眠い目を擦りながら半身を起こした。それから両腕を伸ばして大きな欠伸を一つすると、ベッドから這い出す。

 キッチンへ行き、既に用意されてある朝食に目をやった。

「また、豆とポテト……」

 ガッカリした目つきで不平を言うと、ミルクの入ったコップを手に取って、一気に飲み干した。

 朝食には手をつけずに、再び寝室へ戻る。鏡台の前に座ると、ボサボサの長い黒髪をとき始めた。


 二


 船内にはいくつもの施設があるが、教会もその一つである。パイプオルガンも備えた本格的な礼拝堂だが、当然ここには神父も牧師もいない。


 イローナは、毎朝ここの一番前の席に座り、祈りを捧げるのを日課にしていた。両手を胸の前で組んで、目を閉じて静かに祈っている。他に人影はなく、しんと静まり返っていた。

 暫くして、物音ひとつしない礼拝堂の中に、猫の鳴き声が響きわたった。イローナが目を開くと、アントンが足元に座って、こちらを見上げていた。

「あら、どうしたの? エストレーリャは?」

 イローナが手を伸ばすと、猫は飛び上がって抱きついてきた。甘えるように、彼女の顎を舌で舐め回す。

「うふふ、くすぐったいわ。……さあ、一緒にお散歩しましょうか」

 そう言って、イローナは猫を抱え、優美な仕草で席を立った。


 礼拝所の入り口から、短い小道が続いている。両側には土が敷き詰められ、本物の木が数本植えてあり、静謐な雰囲気を醸し出していた。小道の脇に立っている小さな墓石の側を通り過ぎて、イローナは船内の通路に出た。


 暫く歩いていると、向こうからジャージ姿のマーゴが走ってきた。彼女はジョギングを毎朝の日課としており、ここで二人が会うのはよくあることだった。

 マーゴはイローナに気づくと、笑顔で右手を上げた。

「おっす」

「おはようございます」

 イローナが微笑みながら挨拶を返して、お互いそのまますれ違った。

 

 スヤスヤと眠るアントンを抱えたまま、イローナは通路から張り出した窓の側で足を止めた。窓からの眺めは見慣れたいつもの星空で、下方に巨大な木星が横たわっていた。

 じっと窓の外を見つめているイローナの後ろで、ドタドタと足音が近づいてきた。

「おはよー、先生!」

 そう言って、マライカとウララが駆け抜けて行く。イローナには返事をする間もなかった。


 三

 

 アミューズメントエリアの一角には映画館がある。映画は客室でも鑑賞できるが、大画面と音響を楽しみたい人にとっては、ありがたい施設だった。サーバには二十万本近い映画データが記録されているが、面白そうな映画はみんなとっくに観終わってしまっているため、現在でも熱心に通っているのはタラだけである。


 この映画館の、せせこましく薄暗いコントロールルームに、タラの姿があった。タッチパネルのコンソールに向かい、慣れた手つきで上映する作品を選択し、時間を指定する。

入力を終えると、黒板を小脇に抱えてコントロールルームの外に出た。

 映画館の客席の扉の前まで来ると、三脚の上に黒板を立てかける。"SHOCK WAVES 02:00 PM"と手書きされた黒板を真剣な面持ちで見つめながら、位置の微調整を始めた。

「タラ、おはよう……」

 背後から挨拶され、首をめぐらせて目をやると、エストレーリャが立っていた。

「おはよう」

 お互いニコリともせずに挨拶を交わす。

「ねえ、タラ。アントンを知らない?」

「ん? 見てないなあ……」

 タラは黒板の位置をずらしながら返答し、顎に手を当てて満足げに眺めた。

「そう……。どこ行ったのかしら」

 エストレーリャが不安げに呟く。

「お腹が空けば帰って来るよ。猫だし」

 タラが気のない返事をした。


 その時、猫の鳴き声がした。エストレーリャが振り返ると、アントンが飛び上がって抱きついてきた。

「あ! いたわね! もう、どこに行ってたの!」

 エストレーリャが嬉しそうに、猫を抱きしめる。

「おはようございます」

 猫の後から歩いてきたイローナが挨拶をした。

「おはよう、先生」

 タラは表情を変えずに返事をする。

「今日は、どんな映画をやるのかしら?」

 黒板を眺めながらイローナが訊いた。

「『カリブゾンビ・ゲシュタポナチ死霊軍団』」

 イローナは引きつった笑顔を浮かべた。

「先生も観る?」

 そう言うと、タラはニタリと笑った。

「……わ、私は遠慮しておくわ。また次の機会に誘ってくださいね」

 イローナは丁重に断ると、手を振ってその場を通り過ぎた。


 四

 

 イオリは相変わらず、ゲーム三昧の日々だった。ほとんどの乗員は、基本的に仕事がないので、全てが自由時間の完全ニート状態だ。誰にも文句を言われることがないので、好きなだけ趣味に没頭することができる。

 「よっしゃ! 勝った!」

 イオリはゲームコントローラを高々と掲げて、ガッツポーツを作った。

 やり遂げた充足感に満面の笑みとなり、コントローラを置いて立ち上がると、洗面台へ向かった。

 蛇口をひねって水を出し、久しぶりに顔を洗う。タオルで顔を拭きながら、鏡に映る自分の顔をしげしげと眺めた。疲れ目で瞼がたるみ、髪はボサボサだ。

 それから、Tシャツの襟元を開いて、自分の体臭を匂う。

(シャワー浴びるか……)

 イオリは無造作に服を脱ぎ捨てると、シャワールームに入って行った。

 

 五


 シンポシオンのブリッジでは、ナンディとジェナが囲碁を打っていた。二人とも床に敷いた座布団に座り、碁盤を挟んで向かい合っている。静かな室内に碁を打つ音が時折反響した。

 ナンディは操舵手で、ジェナは通信士だったが、船の運航は全てヘゲモニコンにより自動制御されているため、基本的に暇である。いざという時のために、待機しているだけに過ぎない。


 二人の対戦が大詰めを迎え、ジェナが脂汗をかき始めた時、船長服に身を包んだマーゴが室内に入ってきた。

「やあ、諸君」

 今まで静かだった室内にマーゴの明るい声が響いた。

「ども」

 ジェナが短く挨拶をした。

「何か異常はないかな?」

 マーゴが碁盤を覗き込みながら訊くと、

「ないね」

「ない」

 と、二人とも素っ気なく返事をした。

「そっか、ない、か。……ラーラは?」

 マーゴは周囲を見回すが、誰も見当たらなかった。

「見回りに行ったよ。仕事熱心だね。自分から積極的に仕事作って、ほんと感心するよ」

 ジェナは皮肉っぽく言った。

「ふーん。まあ、何かしてた方が気が紛れるしな。いいんじゃないの」

「お前がいないから退屈だったんだろ」

 ナンディがマーゴをちらりと見やって言った。

「そんなわけないだろ」

 マーゴは船長帽を舵輪に掛けると、窓から外を眺めた。

「平和だねぇ……」

 碁石を打つ音が高らかに鳴った。


 六


 医務室では、メイリンとルミが応接用ソファに並んで座り、お茶を飲んでいた。メイリンは片手を背もたれに置いて体をもたせかけ、ルミは背筋を伸ばして浅く腰掛けている。

「いい香り」

 ルミが湯呑みを両手で持ち、お茶の香りを楽しんだ。

「本物のジャスミンティーだよ。高級品さ。ここのまがい物なんて、比べ物にならないっしょ。でも、みんなには内緒だぜ。ゴルギアスからの補給が、次いつあるか分かんないからね」

 メイリンはそう言って、ニカッと笑った。

「そんな大切なもの頂いてしまって、いいんですか?」

 ルミが不安げに尋ねた。

「いいっていいって。暇つぶしに付き合ってくれてるお礼だよ。それに、若い子と話してると楽しいしね」

 どう見ても、メイリンの方がルミより幼く見えるが、年上である。

「あははは……」

 ルミは困った顔をして笑った。薄いブロンドの髪を、指にクルクルと巻きつける。ルミがよくやる癖だった。

「飯さえ美味けりゃ、ここは極楽なんだけどねぇ」

 メイリンは片手で湯呑みの茶を啜りながら、愚痴を言った。

「香辛料、みんななくなっちゃいましたもんね」

 ルミが微笑みながら、上品に両手で湯呑みを口に運ぶ。メイリンはその様子をじっと見つめた。

「この船に乗った時、ルミは何歳だったっけ?」

「えっと、……私は、十一歳でした」

「小さかったよなぁ。それが、こんなに大きくなっちゃって」

 メイリンは、しげしげとルミの横顔を眺めた。

「メイリンさんは、変わりませんね」

「あたしはもう、成長止まってたからね。ていうか、それって嫌味かい?」

 メイリンが意地悪そうな笑みを浮かべて、ルミに顔を近づける。

「いえっ! 決してそんな……」

 ルミはたじたじとなって、慌てて否定した。


 その時、船内放送のアナウンスが流れた。

——お客様にお知らせします。本日、午後、二時、より。アミューズメントエリア内劇場にて、映画の上映が行われます。皆様、奮ってご参加ください——

 合成音声による柔らかい声音を、二人は天井に耳を傾けて聞いた。

「映画か……。行くかい? 暇だし」

「はい、行きましょう」

 二人はお茶をテーブルに置くと、席を立った。


 七


 シャワーを浴びてさっぱりしたイオリは、自室の外の廊下で柔軟体操をしていた。時折、「イテテテ」と呻き声を漏らす。しばらく運動していなかったので、すっかり体が硬くなっていた。

 足を開いて立ち、前屈運動を始める。勢いをつければ、なんとか指先が床に届くという体たらくだ。

 顔を真っ赤にして踏ん張っていると、

「イオリ、イオリ」

 と、呼ぶ声がした。

 膝に手をついて股の間から覗くと、通路の曲がり角から、マライカとウララが頭だけ出して、こっちを見ていた。

「こっち、こっち」

 と、マライカが手招きする。

「よお、どうした?」

 イオリは上半身を起こすと、腕を左右に振りながら二人の方へ歩いて行く。

 マライカとウララは、イオリが来るのを確認すると、頭を引っ込めて壁にへばりついた。二人は、ヘッドライト付きの工事用ヘルメットをかぶっている。

「なんだよ……」

 イオリが訝しげに尋ねる。

「行くぞ」

 マライカが真剣な表情で言った。

「どこへ?」

 イオリは首を傾げる。

「幽霊探し!」

 ウララが声を張り上げた。慌ててマライカがウララの口を塞ぎ、「シッ!」と言って人差し指を自分の口に当てた。

「ああ、あれか」

 イオリはやっと合点がいって、

「よし、行こうぜ」

 と言って、やっと笑顔になった。


 巨大なシンポシオンは、船内がいくつもの階層に分かれている。五千人が二年間ストレスなく生活できるよう、十分なスペースが確保されているが、乗員が十二人だけの現在では、ほとんどが使われていない。そのため、主に船内の管理を容易にする目的で、下層階を閉鎖していた。立ち入り禁止となった区画は隔壁で閉鎖され、通常は入ることができない。


 三人は下層階への階段を駆け降りると、頑丈な隔壁の前に辿り着いた。隔壁を開けるのは難しそうだったが、右側の壁の床に近いところに通風口がある。人一人通るには十分な大きさだ。

 マライカが通風口のカバーの隙間に手を入れて引っ張ると、カバーは簡単に外れた。

「へへっ」

 マライカが自慢げにイオリを見てから、ヘッドライトのスイッチを入れた。そして、四つん這いになって通風口の中に入って行く。ウララがその後に続いた。


 イオリが通風口に頭を入れようとした時、突然誰かに襟首を掴まれ、引き戻された。

「うわぁ!!」

 イオリの悲鳴を聞いて戻ってきたウララが通風口から顔を出し、イオリの背後の人物の顔を見て苦笑いをする。そこには、鬼の形相のラーラが立っていた。

「あ・な・た・た・ち!」

 低い静かな怒りの声に、イオリは観念して襟首を掴まれたまま大人しくなった。ウララも這い出してきて立ち上がると、バツが悪そうに頭を掻いた。

「もう一人いるんでしょ、出てらっしゃい!」

 ラーラが促すと、マライカが白い歯を見せ、

「ニヘヘ、見つかった!」

 と、楽しそうに笑いながら出てきた。

 三人一列に並ばされて、腰に手を当てて怒っているラーラと向かい合った。

「まったく、あなたたちは何してるの! あれほど、立ち入り禁止区域に入るなと言ってるでしょ! 今日という今日は勘弁できません! 罰としてブリッジの掃除をしてもらいます!」

「えーっ!」

 三人同時に抗議の声を発する。

「言い訳は認めません! さあ、いらっしゃい!」

 ラーラが踵を返すと、三人は渋々とその後ろについて歩き始めた。

 

 八


 映画館では「カリブゾンビ」が上映の真っ最中だ。

 タラは客席の中央に陣取って、目を輝かせながらスクリーンに見入っていた。その隣の席では、エストレーリャがスヤスヤと寝息を立てている。

 前方の席では、メイリンがスクリーンを指差してゲラゲラ笑っていた。ルミがその隣で、顔を手で覆ってスクリーンから目を逸らし、ガタガタ震えている。

 一番後ろの席ではマーゴが退屈そうに、そんな皆んなの様子を眺めていた。


 マーゴは大きな欠伸を一つして、頭を回して首の骨を鳴らすと席を立った。映画館の後ろの扉をそっと開いて、外へ出る。扉が開いた瞬間に、足元をアントンが駆け抜けて行ったことには、まったく気づかなかった。


 九


 ロボットが給仕してくれるオープンカフェでは、通路側の席でイローナが休憩していた。

 ロボットは銀色の円筒形ボディをしていて、短い脚部でチョコチョコと歩きながら、頭部に固定されたトレーに乗ったコーヒーカップを器用に運んだ。

 イローナは、あまり美味しいとは言えない代用コーヒーの入ったオシャレなカップを、優雅な手つきで口元へ運ぶ。図書館から持ってきた本をテーブルの上に開いて置き、読むともなしに眺めていた。

 

 そこへ、ラーラを先頭にイオリ、マライカ、ウララの四人が一列になってやってきた。

「あら、こんにちわ」

 イローナが右手をひらひらと振って挨拶した。

「ふふっ、珍しい取り合わせね。どうなさったの?」

 普段見ない不思議な行列に、クスリと笑って訊いた。

「ああ、いや、この子たちがまた立入禁止区域に入ろうとしたもので、罰として掃除でもやらせてやろうと思いまして」

 ラーラが少し恥ずかしそうに答える。

「まあ、いけない子たちね」

 イローナが柔らかく叱ると、三人は揃って舌を出しておどけた。

「ちょうどよかったわ。その子たちは私が預かりましょう」

 そう言うと、本を手にとってふわりと立ち上がった。

「ええっ!」

 驚くラーラを尻目に、イローナは返事も聞かずに歩き出した。

「さあ、いらっしゃい。お仕置きしてあげます」

 イオリたちはそれを聞いて、チャンスとばかりにラーラの側を離れて、イローナの周りに群がった。

「ちょっと!」

 ラーラの抗議の声を無視して四人は離れていく。

「イオリ、あなた機械に詳しかったわよね。私の部屋のエアコンが調子悪いの。直してくださるかしら?」

「ああ、いいよ。じゃあ、一度部屋に戻って工具取ってこなきゃ」

 楽しそうに会話をしながら遠ざかっていく四人を、ラーラは苦虫を噛み潰したような顔で見送った。


 十


 アントンは実験体のオス猫である。正式な名前はマルクス・アウレリウス・アントニウス。人間の実験体第一号であるマーゴよりも先に生み出された。つまり、シンポシオンの中で最年長であり、唯一の男だ。

 この船の十二人の実験体は皆、赤ん坊の頃からこの猫と遊んで育った。今でも、自分は皆んなの父親代わりだと自負していた。

 今は、子供のまま成長の止まったエストレーリャと共に生活している。大抵は彼女の側にいるが、たまに退屈すると船内のパトロールに出かけた。


 下層階へ続く階段を駆け降りると、人があまり来ることのない静かな場所へと出た。ここはたまにネズミが出るので、パトロールの最重要地点だ。

 ネズミの気配を求めてウロウロしていると、いつもは閉まっているはずの通風口が開いているのに気づいた。その奥から、微かに匂いが漂ってくる。

 迷わず中に飛び込むと、少し歩いた先にあった通風口から、隔壁の反対側へ出た。

 そこは非常灯だけが灯る暗闇だったが、もちろん猫にはこれで十分だ。匂いを頼りに通路の奥へと進んでいく。

 漂ってきた匂いに中に、微かに懐かしさを感じるものが混じっているのに気づいて駆け出した。その匂いは、前方の曲がり角の向こうから漂ってくる。


 角を曲がると、アントンは立ち止まった。目の前で、白い影がゆらゆらと揺れいている。人の背中のようなそのシルエットに、遠い昔の記憶が呼び覚まされ、一声短く鳴いた。

 その影は、こちらに気づいてゆっくりと向きを変えた。赤い目が二つ暗闇に光っている。

 

 しばらくの間、お互い身じろぎもせず対峙していたが、やがて白い影が近づいて来た。影は覆い被さるように身を屈めると、冷たい手を伸ばして頭を撫でた。

 アントンはその懐かしさに安堵し、喉をゴロゴロと鳴らした。

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